哲学は疑いを原動力とする人類至上初の学問

2019年12月30日哲学と思想

哲学的な歴史を感じさせる画像

おはようございます。

生まれ変わったら、ジェダイの騎士になりたい。mikioです。

今回は、「哲学ってどんな学問なんだろう?」ってのを、改めて振り返ってみた記事です。

すごく乱暴に言うと、哲学って、「それ違くない?こうでしょ!」ドーン!

みたいな事を、繰り返してきた学問だと思うんですよ。

つまり、哲学の本質は、【疑う】事にあると。

例えば、宗教は、これとは正反対の性質を持ちます。

宗教の本質は、【信じる】事にあるからです。

信じるという態度が崩れると、宗教は、たちまちに効力を失う。

で、哲学の初期は、困った時に用いられる、便利な答えがあったんですよ。

それが、神の存在です。

考えまくった末に、根拠が曖昧な部分は全て、これで解決。

「つまり、それはね、神がやったんだよ」

その場凌ぎの為に、神は便利な存在だったのです。

まぁそれも、哲学によって、神という名の根拠は、内部から破壊されるんですけどね。

この記事の結論

能動的に疑う態度は哲学的なスタイル

哲学とは何か?少なくとも受動ではない

ジル・ドゥルーズという、フランスの哲学者がいます。

彼は、晩年近く(66歳くらい)に、【哲学とは何か】という本を書いているんですよ。

その中で ジル・ドゥルーズは、「哲学とは何かを語るちょうどよい年代になった 」と言っています。

そういう意味では、哲学者でもない僕のような若造が、「哲学とは何か?」などという、本質に迫る問いを語るのは時期尚早ですよね。

まぁ、あくまで、現時点での仮固定の見解という事で。

では、改めて哲学とは何か?

一旦整理してみます。

語源を辿れば、それはsophyをphiloする事です。

つまり、知を愛する事。フィロソフィー。

「ワシャ知りたいんじゃ!」っていう、止めどない知的好奇心。

そもそも、凡ゆる学問は、哲学から派生していきました。

逆に言えば、学問の根源は哲学にあるって事になります。

しかも、元を辿ってみれば、2000年以上もの歴史があります。

脳科学や心理学、進化生物学が具体的な学問であるなら、哲学は個別具体を包含する、抽象的な学問って事ですね。

でもそれは、「哲学とは何か?」という問いに答えてはいない。

言ってしまえば、定義は三者三様、十人十色、千差万別。

歴史に名を残してきた哲学者の、それぞれの哲学を眺めてみれば、明らかです。

「哲学とは何か?」という問いは、「デザインとは何か?」という問いのように、抽象度が高く、定義が曖昧です。

しかしながら、【〇〇とは何か?】というラディカルな問い自体が、実は、哲学の始まりだったりします。

哲学的な問いはラディカルでクリティカル

例えば、電話とは何か?という問いは哲学的な問いです。

電話をどう使うか?とか、電話はどんな形をしているのか?だと、哲学にはならない。

なんなら、なんで電話なの?電話じゃなくてもいいんじゃないの?っていう疑問を、徹底的に考えようとするのが、哲学の特徴です。

その点、実利主義の人からすれば、哲学者は、どうでもいい事をしつこく考えてる人っていう印象になるでしょうね。

考える事は、立ち止まる事です。

なんで電話なの?っていう問いに、情熱を注ぐ。

それって、暇人にしかできないじゃないか、と。

そんな事より、働け。

ってなりますからね。

哲学はメインストリームに対する批判の歴史

その時代、その領域、そのコミュニティには、一定の常識があります。

哲学者がやってきた事って、その常識に対して異論を唱える事なんですよ。

当たり前とされている事、共同幻想(多くの人の共通の思い込み)を、前提から問い直す。

延いては、ひっくり返してしまう。クリティカルに。

これまでの哲学史を見ていると、哲学の歴史は、ある潮流(デファクトスタンダード)に対するカウンター(反動)の歴史だと言えます。

因みに、デファクトスタンダードってのは、事実上の標準って意味です。

先述した、電話の話を、横に広げてみます。

昔の文字によるコミュニケーションは、手紙が主流でしたよね。

ところが、約20年前、インターネットの台頭によって、コミュニケーションの手段は変容しました。

メールの登場です。そして現代のコミュニケーションのデファクトスタンダードは、メールではなく、LINEになっています。

このLINEという常識に対して、更に「ほんとにLINEでいいの?」「もっといいツールがあるんじゃないの?」って問い直すような事をしているのが、哲学者のやってる事です。

見る人から見れば、面倒くさい人に見えるかも。

実際、ソクラテスは、「え?それって何ですか?答えられないんですか?じゃあ何も知らないのに、知ったかぶってたんですか?」みたいなノリで、インテリに問いかけまくって、相手のプライドを傷付けた結果、死刑になってしまいました。

勿論、ただ重箱の隅をつつくだけではなくて、なんなら、新しいコミュニケーションツールを作り出そうとする試み。

メールよりも、LINEよりも、優れているような、前衛的な何かを創造してしまう。

わかんないですけど、脳にチップを埋め込んで、テレパシーができるようになる。みたいな事です。

哲学は保守的な幸福よりも破壊的な真実を求める

【知らない方が幸せな事もある】なんて、どっかの誰かが言ってるのを、見聞した事がありませんか?

その方が、見て見ぬ振りをしている方が、穏便に済むから。

例えば、恋人の浮気とか。配偶者の不倫とかってのは、その典型かもしれません。

知らなければ、2人の関係性が悪化する事は無かった訳ですよね。

或いは、イチゴ系の着色料の正体が、カイガラムシという昆虫の死骸だったって話とかね。

あのスタバですら、2012年くらいまで、虫の着色料を使ってたって話です。

実は、成分表にコチニールっていう表記があれば、それは虫です。

それを知ってなお、苺ミルクなどといった、可愛いネーミングの飲み物へ、手を伸ばそうなんて思えますかね。

このように、真実は、当人と世界の関係性を、崩してしまう可能性があります。

なんの疑いも持たなければ、それでよかったのかもしれない。

でも実態は、誰かにとって都合の良い嘘だったりする。

これは、プラトンのイデア論(洞窟の比喩)に通づるものがあります。

参照記事:西洋特有の上位概念の源流をプラトンのイデア論にまで遡る

洞窟の比喩ってのを、今風に言ってみます。

それは、生まれてからずっと、映画館のスクリーンを前に生きている人がいるとして、画面に映るものだけが、真実だと信じている人達に、「表に出ようぜ」って言うようなものです。

人によっては、「余計な事を言うな!」って怒られるかもしれないし、痛みを感じて尚、「本当の事を知れてよかった」と喜ばれるかもしれない。

良くも悪くも、人の偏見に水を差す結果を招くので。

哲学は、後者の為の、痛みを伴う学問です。

そこに隠された真実を暴き出そうってのが、哲学の向かう方向です。

見方によっては、哲学は、人の幸福をぶっ壊す学問だとも言えるかも。

哲学は能動的な問いかけによって前に進もうとする営み

いままで疑わなかったことに、何の根拠があったのか。

これから信じることに、何の意味があるのか。

自分で選び、自分で全うすることを引き受けないと、いつまで経っても踊らされるだけだ。

「わかってくれない」とか言い続けるだけだ。(ただでさえ面倒くさいことが多い世の中ですから、恐らくもっと面倒になります。)

出典:THE NOVEMBERS/WEBLOG/小林祐介

哲学的な態度ってのは、情報を鵜呑みにするとか、疑わないまま信じるといった、受動的な態度とは違います。

コギト ・エルゴ ・スムを、最初の一歩として演繹を始めようとした、懐疑論者のデカルトのように。

信じたいからこそ、疑う。

参照記事:「妖怪のせいなのね!?」【ようかい体操第一】とデカルトの方法的懐疑

徹底的に疑って、疑い得ないものを発見する。

これこそが、哲学的(能動的)な態度って事ですね。

つまり、哲学とは、疑う事であると。

そう言っても過言ではないって事。

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mikio
以上、mikioでした。ありがとうございました。
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