【考える】とは終わりなき(仮)の更新である
例えば以下のような営み?
- 情報の整理
- 編集
- 思い出す
- 繋げたり切り離したり
他にもありそうだけれど、どうですか?
今回は考える事について考えてみます。
「考えない大人になるくらいなら死ぬまで中学生でいるべきだ!そうだろ!」と、宮藤官九郎監督の映画「中学生丸山」の草彅剛扮する下井辰夫が激昂するセリフが惹句となっていますが。未だにこの意味が解らない。
このセリフが、「考えろ」と言っているのは解る。
しかしこれが何故、中学生なのか?— みきお▶︎100冊読書挑戦中 (@mikio_96) 2018年11月21日
思考を哲学【考える】とは周囲の流れに抗う事
基本的に、考える事は問いに対する答えを探す行為です。
つまり、結論を得る為に考えている。
全ての思考は問いから始まると言っても過言ではないでしょう。
じゃあ、その問いは何処から芽生えるのか。
やはり感じる事からじゃないでしょうか。
感じた直後に、「あれは何だったんだろう?」とか振り返る事。
つまり、立ち止まる事が【考える】という事。
日常のあらゆる流れに逆行したり、外界からの情報を一時的に遮断するって事です。
そして、後付けのように、こじ付けのように、言葉を使って【あの感じ】を描写しようと試みる。
例えばこの、【考えるとは何か】について考えている時、先ずは過去のデータ、つまり記憶を参照しに行く筈です。
自分の頭の中にある記憶は全て、過去にしか無いからです。
そこから【考えるとは何か】と云う抽象的な命題と、例えばに続く具体との因果を、自分の体験や知見と照らし合わせながら探し出します。
このようにして、問いに対する答えを探し続けている状態で居続けるって事です。
傍から見ると、考える人って、KYだったりします。
同調圧力に対してノリが悪くなるので、その【場】からすればキモかったり、頭おかしい人みたいな図式になる可能性もある。
【考える】事は能動的に待ってる状態に等しい
問いを念頭に置き続ける。
これを、以下の本では【問いへの緊張】と呼んでいました。
この本、とても面白いです。読み易いし。(フォントの明度が高めだから、読み心地が軽いのかな?)
これって例えば、自分にとってしっくり来る音楽を、ずっと待ってるような気持ちで、タワレコの試聴機をウロウロするような感覚に近しいような気がします。
その想いが、自分の体を試聴機に運び
と云う、出会いを齎す。
今の人はもう、そんなアナクロな音楽の探し方はしないのかな?
アナクロとは
[名・形動]
1 「アナクロニズム」の略。
2 時代に遅れたり逆行していたりするさま。「アナクロな思想」出典:デジタル大辞泉
知る事って面白いけど【考えて】はいない
学校のテスト勉強は、テストの問題に対応出来るように、知識を集積させる行為です。
少なくとも僕の学生時代は、暗記重視の手法に傾倒する事で、点数を上げる事が評価される仕組みでした。
だからつまらなかったんだろうなと、今なら解るんですが、今じゃ遅いですね。
なんで【つまらない】ってレッテルを貼っちゃったんだろう。
【知る】事って面白いのに。
それを知らないからですよね。勿体無い。
同様に、人生に於いても、次々と身に迫る、普通の問題に一々対応するには、多くの知識や技術、経験の集積が必要となります。
でも、そこで実際求められるのは、暗記力以上に、文脈を読み取ったり、仮説検証をしてみたりと、考える力の方が前提にありますよね。
つまり、【知る事】や【学ぶ事】と、【考える事】は違うって事ですね。
知ってるという状態は、考える為の前提だって事です。
例えば僕の場合は、デザインを通して「論理って何?」という、疑問に踏み込む切っ掛けを得ました。
そして、以下のような記事を綴る事が出来ました。
参照記事:論理とは何か?デザインとの相関を考察【スレッド編】
参照記事:論理とは何か?デザインとの相関を考察【ポイント編】
参照記事:論理とは何か?デザインとの相関を考察【スピード編】
参照記事:論理とは何か?デザインとの相関を考察【リアクション編】
「なんで?」解りたいけど解らない
僕の娘も2歳の時点で、目の前の事象に対する情報の説明に対して、まるで相槌のように「なんで?」と、問うようになりったんですよね。
本当に相槌なのかも知れないし、「知りたい」という、好奇心としての反応なのかも知れないし。
その辺の真相は本人にしか解りませんが。
少なくともその疑問が、子供を物凄いスピードで成長させてるんだろうなと感じます。
その問いによっては、返答に困って沈黙してしまう事もしばしば。
かといって、「そういうもんだからだよ」と、思考停止の言葉を差し出す訳にもいかないし。
そりゃ無知で未熟な2歳の子供からすれば、周囲はよく解らないもので溢れているのだから、それが何なのか。疑問を抱くのは当然の事ですよね。
「あーもう全部全然わかんない!なんて言えばいいの!?」
そんな言葉にならない声を、声にする為に泣いてみるのが、幼児のコミュニケーション。
「もどかしい!」そんなパンクロックな精神性で。
参照記事:「これしかやらねぇ」VS「これしかできねぇ」/punkと子供
この【よく解らない】っていう状態ですが。
この状態って、時にストレスとフラストレーションを引き起こします。
基本的に好ましい状態ではないんですよね。
勿論、解りたくもない事ってのもあるかと思います。知る必要の無い事もある。
苦しいのは、解りたい事が解らない状態だからです。
相対的に輪郭を眺めると【違い】が見える
何が解らないのか。それを言語化する事って難しいです。
逆に言えば、【言語化出来ない】と云う状態は、自分でも理解出来ていないからです。
そもそも解るって何か?
例えば、【違いのわかる男】なんてフレーズを何処かで聞いた事があるかと思います。
理解ってのは、正にコレなんじゃないかと思うのです。
例えば、リンゴとナシのように、似たようなものの中にどんな違いがあるのか、これをどんどん知りながら増やす事で相対的に違いが解って来る。
以下の記事で述べましたが、知ってる事と知らない事を比較する事で、少なくとも2点間での違いは解る。
参照記事:【学習速度が遅い原因とは?】理解スピードの遅い凡人がその理由を考察
このように、違いを整理する事が【解る】って状態に直結するのではないでしょうか。
整理するとは何か。
それは区別するところから始まります。
つまり、境界線を引いていく作業です。相対的に、違いが解るように。対比する。
知ってるようで全然知らない事
なんでもかんでも、Googleで検索してしまえば、それっぽい答えに辿り着く事が出来ます。
だからこそ、解っている”つもり”になっている事って、掘り下げれば無数に潜在している筈です。
例えば、今論点としている【考えるとは何なのか】と云う問いは正に、解っているつもりになっていた自分の思考に対する問題提起ですよね。
考えるって結局なんなのか。と問われると、【考える】事について、考えた事も無かった場合。考え込んでしまいます。
他にも理解に根を下ろす事無く、なんとなく記号的に使っている言葉は結構あると思います。
【センス】や【ロック】それから【デザイン】等は、その典型ではないでしょうか。
この辺の単語は、ONE PIECEの白ひげ並みに包容力が高過ぎるので、便利な言葉として扱われてしまう傾向にあるんだと思います。
出典:ONE PIECE/58巻/18p
そういう意味では、インターネットって、実は考える為のツールではないんですよね。
【なんとなく】それっぽく流れに乗っている自分に、敢えて水を差す事で、それに気付ける行為です。
そうする事で、自分がその事に関して何も解っていなかった事を自覚する。
このプロセスのお陰で、解らない事が解る機会を得る。
これでやっと、疑問の焦点が明確になります。
自分が学校の生徒だったら
とか、胸を張って言える状態です。
解らない事が、解らない状態に陥っているのが実は辛いのです。
知りたい事を知らないって状態が、息苦しいのです。
知りたい事が解れば、後はやる事は定まってくる。
「此処が解らない」って明確に言える事って、案外わくわくするものなんです。
基本的に【考える】って、贅沢な時間なんですよね。
時間を忘れる事が出来る位の余裕が無いと、立ち止まってなんか居られないからです。
余裕とは何かって云うと、それは精神的余裕であり、時間的余裕であり、金銭的な余裕ですね。
他の問題に気掛かりがあると、そっちに意識が割かれますからね。
焦ってしまうと、一歩引く目線も失いがちです。
例えば、「明日死にますけど」って言われたとしたら、そこで何かを考えたりするだろうか?
体感に勝る情報は無い
ネット上には、凡ゆる情報が玉石混交です。
それなのに、好きなあの子の好きな人を、Googleの検索ボックスで検索しても解らないんです。
自分にとって、この世で最も正しい情報は何処にあるのか。
それは、自分の肉体を現場へと運んだ時に得る情報ですね。
事件は現場で起きてんです。捜査は足で稼ぐのが一番でございやす。
好きなあの子に告白しないと、自分があの子の側に居てもいいのかどうかなんて解らないのです。
そもそも、考える事の目的は最良の答えに辿り着く事です。
その為に出来る事は、身体を使って【試す】事。行動を起こす事です。
何故なら、自分が感じた事が、自分にとってこの世で最も正しい情報だからです。
誰だって、誰かの言う【いいね】が、自分にとっては【ダメだね】って事になるような、好みの違いが必ず生じます。
だからこそ、似ている人を好きになってしまうのでしょうね。
答えは行動の中にあるのです。
際限なく拡張される思考に答えなんか無いからずっと(仮)になる
確信している事が一つあります。自分が、何かと対峙した際に生じる疑問。
【何故?】を放置しない人は、前に進める。と云う事です。
考える事は立ち止まる事。
でもそれは、上手く歩く為の静止なんじゃないかと思います。
そこで一旦、仮固定の足場を作るように、次に進む為のベースを築くのです。
結局完成なんて無いのだから、結論の仮固定を繰り返しながら、あちこちに行ってみる。
根拠を手に入れて、その一歩の踏み込みを強くさせる。
仮に此処で、「なんでだろう?まぁいいや」と、自分にとっての貴重なリソースとなる、疑問や好奇心を置き去りにして放置してしまえば、当人は寧ろ、そこで止まったままになってしまうんじゃないでしょうか。
なんとなく。場当たり的に。感覚的に生きる事は、自分にとっては楽な選択肢です。
でも立ち止まってみないと、結果的に進める領域は限定されてくる筈。
そして、以下の記事で言う【一歩引く事で持つ余裕】も
参照記事:自分の言う事は100%間違っている
この記事で言う、【立ち止まる事で流れを止める】事も、本質的には同じ事だと考えています。
仕事で余裕が出てくると、手の抜き方が解って来るように、周りがよく見える状態になる。
なんで周りが見えると都合がいいかと云うと、生き易くなるからです。(精神衛生的なものが大きい)
そんな訳で、今はこの結論で仮固定しておきます。