論理とは何か?デザインとの相関を考察【リアクション編】

2019年6月28日考察してみた

手と手他人に情報を伝える場面てのは、生きていれば必ず遭遇する出来事です。

3歳の娘ですら

  • 「保育園でブロック遊びした」
  • 「お母さんと出かけた時に虫が居た」

等々と、自分の体験を教えてくれます。

大人になれば尚更、情報の共有・意思の疎通は、避けては通れない行為でしょう。

仮にそれを回避していこうとする道を選ぶとしたら、言葉が足りない状態では今後、何も守れないし、尊重できない事を自覚した上で、そちらの方へ進むべきだと思います。

そんな忠告を、当時、「別にこれでいいよ」とか思っていた過去の自分に言ってやりたいです。

知りたいけど解らない。と云う感情を、面倒諦観。と云う感情と一緒くたにして、曖昧にしてしまったアホな自分に。

そして感謝したいです。そのヒントを与えてくれたデザインの世界に。

デザインの学習を契機に派生する興味

言葉だけで何かを護ったり、躱したり、見付けたり、解決したりする事の必要性には薄々気付いていました。

しかし、具体的に何をすればそんな人になれるのかまでは解らない。

そんな疑問を、デザインと正面から対峙する機会を得る事で、根拠の重要性を再確認する事が出来ました。

そもそも「論理って何だろう」

そんな、素朴な疑問の入り口まで連れてきてくれたのはデザインです。

そこからは一気に、疑問への好奇心が加速します。

伝える事や読み解く事の必要性を、より強く感じるようになったのです。

 格好良い大人になる為に

自分の意見を持てない事。意見が有ったとしても、伝えられない事は、自分と相手を蔑ろにする事に等しい。これは自分の体験を通して感じている事です。

何より、これからも言葉に対して不自由であり続ける未来を、自分自身で選び取っているのだと言わざるを得ないのは確かです。

そんな態度しか取れない大人なんて、あまりに格好悪いと思うのです。

僕のように性別が男であり、内省的で雑談自体を好まない上に、感覚で目の前の事を捉えて行動に移すタイプの人間は特に、論理的思考の知識が必要だと思うのです。

せめてこれが思考の軸に浸透出来ていれば、日常生活に差し支えは無いでしょう。

僕にはそれが上手く出来なかったし、どうすればいいのか解らなかった。

そんな個人的な沿革が背景にあったから、今までずっと漫画音楽に頼って来た部分が、多分にあります。

学生時代のもどかしさ

そもそも、論理と云う概念が気になり出した動機の背景には、そこに、自分が上手く話せるようになる為の何かがある。と云う期待を見出だしているからです。

つまり、上手く話せなかった体験の集積が生み出した失敗が、論理に対する知的探究心を駆り立てている原動力として、機能しています。

学生時代、何か苦しい感じがしたのは、自分の想いや感覚を言語化出来なかった事に起因しています。

だからこそ、中学生の頃に、それを見事に言語化していたBUMP OF CHICKENの藤原基央(敬称略)に惹かれ、憧れを抱いたのでしょう。

読み解く為の論理と組み立てる為の論理

論理について学んでいると、今まで頼って来た漫画音楽にも、論理が根深く関わっている事に気付きます。

論理は構造の把握と、構成力に密接に関わっているのです。

此処で1つ、絶望的な事実に気付きます。論理性の乏しい自分が漫画家になんてなれる訳が無かったと云う事です。

物語は論理そのものです。情報と情報をどう繋げていくか。少なくともプロは例外なく論理性が高い筈。じゃないと話が弱いものになる。

勿論必要な素質はそれだけじゃないけど、前提として論理は必要だって事ですね。

漫画って、デッサンの上手さよりもストーリーの面白さの方が重要だと思います。

それまではとか、感性を豊かに鋭利にしていく事だけに意識が向いていたけど、それらは論理の上に乗って初めて形態化していくって事ですよね。あーちくしょう・・・

反事実化すると、もしあのまま今の嫁さんと別れて、野垂れ死に覚悟で突っ込んでいたら、この事に気付かなかった可能性が高い。ファミレスで自分の漫画のキャラクターと同じ顔になりながら挙動不審に漫画を描き続けているだけだったら・・・

それこそBUMPのセカンドアルバムに於ける、リビングデットの登場人物のような状態になっていたのかも知れません。

デザインに興味関心のフォーカスを当てた事で、派生的に伸びた興味関心に論理が有ったから、こんな記事を描けていますが、所詮は憶測です。選ばなかった未来であるパラレルを確認する事など出来ないのですから。

ただ1つ解った事は、漫画家になりたいなら論理はマストだよって話ですね。

仮に漫画家になりたい人がこれを読んでいたとして、僕みたいな人間を増やさない為に此処で一つ言える事は、「とりあえす野矢茂樹(敬称略)の本を読んでみてください。」です。

読み解く事が出来れば、今度は組み立てる事も出来る訳で。

自分が解り易く整理して把握する為にも、他人に解り易く整理して伝える為にも、論理は機能してくるのです。

何故論理なのか?

では一体論理の何が、コミュニケーションに恩恵を齎すのでしょう?

何故、伝える事に論理が有効なのか。自分なりの解釈を展開してみます。

 

此処に1つ、極端な例を挙げてみます。

例えば「今日は何食べようか」と相手が自分に向けて発言した場合。

「じゃあハンバーグにしよう」と答えれば論理的であり。

「それよりハワイに行こう」と答えた場合は論理的ではない。と言えます。

 

どういう事か。

ここで留意する点は、論理が発生しているポイントは何処なのかって話なんですが。前者は問いの一文に対して、関連性のある返答をしています。

意味を引き継いで、それに関する意味を返している。つまり、意味の因果関係を保っている

後者は問いに対して、明らかに恣意的で脈絡の無い事を言っています。

多分、この人は普段からハワイに行きたい想いが有って、何故か会話の途中でそれが溢れ出してしまったのではないでしょうか。或いは、街を歩きながら会話をしていたら、ハワイ旅行のポスターが視界に飛び込んで来た。とか。

そういう意味では、思い付いた事を口にしたい衝動を抑えて、それまでの発言に対して因果を保った発言をする事が、論理的な態度であると言えます。

この事から、渡されたものへのリアクションが正しく出来ていれば、その人は論理的と言っていいのではないでしょうか。

つまり論理は、アクション(問いや主張)に対するリアクションの力の事を指す側面があるのかも知れない。

因果のキャッチボール

キャッチボールと云う、投球捕球を繰り返す行為があります。これはよくコミュニケーションのメタファーとして会話のキャッチボール。と称され、置き換えられています。

投げられた玉を捕球して返す。たったそれだけの事ですが、案外、それが上手く出来ない事って少なくないのかなと思います。

相互に語彙や知識、理解の差異の度合いが強かったりすると、ボールを正確に捕球出来ません。

たまたま足元にあったボールを投げてみたり、相手の立ち位置の方向に投げられず、暴投してしまったり、仕舞いには、バスケットボールを投げてしまったり。なんて事態になる事も。

仮に2人の知識や定義が近しいなら、知り得る限りの単語と言い回しを使っても、相互に意味が通じ合う筈です。

しかし、もし相手が3歳の子供だったらどうでしょう。豪速球で投球でもすれば最早暴力です。

それが想像出来る大人であれば、子供にも捕り易いように、下投げで緩やかな弧を描いたボールを宙に浮かせる筈です。

伝えたって、伝わらなければ会話にならないから。

正にこの会話のキャッチボール。或いは、因果のキャッチボールと言った方がいいですかね。それさえ出来れば、ちゃんと人の話を聞く事が出来る人であり、話の主旨を捉える事が出来る人。つまり、正しいリアクションが取れる人。となります。

=論理的な人。

 

なんだか、論理的かどうかの話は置いといたとしても、これって普通の事ですね。この事からも、論理は人と話をする上で最低限必要なものと言えそうです。

これが芸人であれば、一笑いをプラスαする訳です。デザイナーであれば、クライアントのニーズに対し、適切なデザインを提案する。となります。

例えば、ハリセンボンの近藤春菜(敬称略)で言えば、フリに対するリアクションとして「角野卓造じゃねぇよ!」みたいなヤツがありますよね。

この人と言えば。みたいなお約束を、デザインの文脈で形成出来れば、それが一種のブランディングになるのかな。と思っています。

まとめ

論理って、高尚なイメージが漂ってましたが、このように最小単位まで分解してみると、かなり普通の事ですね。

誰もがそうだし、こんな僕でも恐らく無自覚に論理のようなものを扱っていた部分もあるのかもしれません。

先述したように、実は論理を扱う事は普通の事だから。

ただ、これを自覚的に扱えるのなら、他人に言葉で何かを伝えるのも面白いとすら思えるのかもしれません。

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mikio
以上、mikioでした。ありがとうございました。
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