義務と義理の違いを日本の家族関係から読み解く
義務と義理ってどう違うんだろう?
似てるような、似てないような。
今回はその違いを、ルース・ベネディクト著作の【菊と刀】を参考に、考察してみます。
義務教育っていう言葉があるので、義務に関しては、なんとなくイメージは付きやすいですよね。
「やらなきゃいけない」っていう、制約とか強制力が働くイメージ。
義理っていうと、真っ先に思い浮かぶのが、バレンタインデーの義理チョコっていう慣習じゃないでしょうか。
その対比として、本命チョコって言葉がありますよね。
つまり、義理には建前的なニュアンスが含まれるって事です。
では辞書で、定義の違いを見てみますと
【義務】とは
- 人がそれぞれの立場に応じて当然しなければならない務め。「義務を果たす」⇔権利。
- 倫理学で、人が道徳上、普遍的・必然的になすべきこと。
- 法律によって人に課せられる拘束。法的義務はつねに権利に対応して存在する。「納税の義務」
出典:小学館デジタル大辞泉
【義理】とは
- 物事の正しい筋道。また、人として守るべき正しい道。道理。すじ。「義理を通す」「義理にはずれた行為」
- 社会生活を営む上で、立場上、また道義として、他人に対して務めたり報いたりしなければならないこと。道義。「義理が悪い」「君に礼を言われる義理はない」「義理をわきまえる」
- つきあい上しかたなしにする行為。「義理で参加する」
- 血族でない者が結ぶ血族と同じ関係。血のつながらない親族関係。「義理の母」
- わけ。意味。
出典:小学館デジタル大辞泉
どちらも、社会的な責任を果たすって言う意味に於いて、やらなきゃいけない事っていうニュアンスを含んでいる。
その点、【筋を通す】にも相当する気がします。
参照記事:【筋を通す】の意味には2種類の使い方(ニュアンンス)がある
少なくとも、好き好んでやるっていう、個人の感情を差し挟まない概念です。
誰かに強要されるような、強迫観念ですらあります。
義務も義理も【恩】という日本特有の概念が背景にある
義務と義理の違いを理解する為には、恩返しに対する日本人の思考様式を理解する必要があります。
義務も義理も、同様に【受けたものを返す】という強制力が働く為、悪く言えば、義務も義理も重荷になると言えます。
肩の荷が増えるので、日本人は借りを作る事を嫌います。
例えば、缶ジュース一本もらってしまった場合、映画踊る大捜査線の室井さんみたいに「自動販売機ごと返してやる」的な事を言わなければなりません。
っていうのは冗談として。
義理というものは、過不足なく、同じ量だけを返すべきっていう暗黙のルールがあります。
だから室井さんの言うように、缶一本に対して自動販売機をかえしちゃった場合、当時の日本では褒められたものでは無いって事になるようです。
一方、義務は違います。返す量に際限がありません。
理由は以下の言葉に集約されます。
日本人の基本的な公理によると、生まれてきた人はそれだけでもう多大の借りをこしらえるのだという。
出典:菊と刀/ルース・ベネディクト/p184
まるで、デヴィッド・グレーバーの負債論みたいな。
「人は生まれた時から、負債抱えてる」みたいな話に近いですよね。
当時の日本人が「このご恩は、万分の一もお返しできない」と口にするように、義務としての恩返しは、生まれてから死ぬまでずーっと続く訳です。
義務としての恩返しは、2種類。
- 両親に対する恩返し(孝)
- 天皇に対する恩返し(忠)
この2つは、日本人であれば誰もが逃れる事のできないものであり、無条件に発動する強制力でもあります。
その一例として、こんな話があります。
日本の現代映画の1つに、次のような筋書きの作品がある。
母親が、既存の息子の手元にまとまった金があるのを見つける。それは、あの女性と救おうとして、今の学校の教師をしている息子が村人から集めた金であった。
女性とは、地方を襲った飢饉の中、生活に窮した両親の手で娼家に売られる寸前だったのである。
そうこうしているうちに、教師の母親がその金を息子から盗む。彼女は、自前の立派な食堂を経営しており、決して貧しいわけではないのにもかかわらずである。
息子は母親が金を盗んだことを知るが、責めは自分で負わなければならない。
事の真相は、息子の嫁にする。嫁は、金が盗まれた責任は全て自分にあると言う趣旨の遺書を残し、赤ん坊を道連れにして入水自殺する。
やがて事実が知れ渡るが、この悲劇における母親の役割は問題にすらならない。こうして息子は神の掟を果たした。
出典:菊と刀/ルース・ベネディクト/p192
なかなかクソみたいな話なんですが、これも日本的な恩返しの1つとしてカウントされるって話です。
こうやって自分の国の過去を見ると、だいぶ恵まれた時代に生まれたなと思いますね。
で、原因としては、中国から輸入した概念への解釈の仕方に要因があるようで
日本人は、中国の倫理体系における最重要の徳目をすっかり解釈し直し、低みに引きずり下ろした。
そして、仁が抜けた後の空白には、義務を条件的なものとするような観念を何ら据えなかった。
その結果、日本における孝行は無条件のものとなった。
孝行は、それが親の悪事や不正を大目に見るということを意味するような場合ですら、守らなければいけない義務と化したのである。
出典:菊と刀/ルース・ベネディクト/p192
日本の昔話も、やたら恩返しのオンパレードですけど、恩を重視するが故の教えって訳です。
「すいません」が感謝の言葉の大半を占める日本の無意識
缶ジュース一本であっても、日本では、他人から何か施しを受けた場合、素直に「ありがとう」では済まない、心苦しさを感じてしまう国民なのです。
だからこそ、感謝の気持ちを表すのに、「すみません」って言う事が、返す言葉の大半を占めるのです。
たまにTwitterのタイムラインに「すいませんじゃなくて、ありがとうって言おう」みたいな、ポジティブ全開系のツイートが流れてくるけど、そういう日本史の文脈、言葉の背景は理解している上での発言なのだろうか?と疑問が残ります。
さて、借りってのは、言い換えると恩の事でもあります。
それ程、日本人にとって恩返しってのは、果たすべき使命となる訳です。
義理チョコ文化って、正直「返すのめんどくさいから要らない」って思うんですけど、気安く恩を受けたくないっていうのも、正にそういう感覚なんじゃないかなーと思います。渡す方も然り。
家族関係の中に義務と義理のニュアンスの違いが見える
実は、当時の日本に於ける家族関係の中に、義務と義理の違いが内在しています。
恋愛を経てから結婚に至る、自由恋愛主義の考えは、今では当たり前のように浸透していますよね。
しかし昔は、当人同士の意思というよりは、親同士の意思によって、結婚に至るケースが普通でした。
核家族化が進む現代では希薄になりつつありますが、家と家との契約という意味合いが強かったのです。
日本人は恩返しを美徳としている特徴があります。
【恩知らず】という言葉があるように、受けた恩は返すべき責任として重くのしかかる。
この恩なんですが、先述したように、義務と義理では、返さなければならない度合いが変わってきます。
ざっくり言えば、以下のように
- 血の繋がっている親に対する恩返しは、義務。
- 血の繋がってない親に対する恩返しは、義理。
結婚した相手の親に対して、義理の母とか義理の父とか言いますよね。
ここに、義務と義理の違いを分けるニュアンスの違いが、見て取れると思います。