菊と刀に学ぶ70年以上前の日本の【恥】文化
温故知新。
今回、訪ねてみた古典が、アメリカの文化人類学者であるルース・ベネディクト著作の【菊と刀】です。
この記事でも知りたかった、【恥】の文化について記されているってのもあって、うってつけだなと思いました。
参照記事:「…なにも!!!なかった!!!…」【武士道】の観点からONE PIECEを読み解く【ゾロ】が死ぬ程カッコいい理由(スリラーバーク編)
【武士道】が、内側から見た日本とするなら、【菊と刀】は、外側から見た日本と言えます。
参照記事:【武士道】2020年東京オリンピックに向けて日本人が知っておきたい大和魂の源流【ONE PIECEで解説】
ベネディクトさんはアメリカ人です。そして女性。
しかも【菊と刀】は、日本との交戦中(第二次世界大戦中)に執筆されたものだったりします。
出版が、終戦後の翌年1946年。
従って、文化人類学の最重要の手法である、現地調査を断念しなければならなかったんですよね。
にも拘らず、文献と日系アメリカ人に聞いた話だけで、細かい分析をしてみせる、アメリカの情報処理力すげーなと思う。
すげーんだけども、それでも所詮、一次情報(体験)の無い文献のみのソース本だなとも思う。そこは念頭に置いておかなければならない。
これに関しては、元々の日本人の性質も、結果的にルース・ベネディクトの日本人研究に加担する事になったとも言えますね。
多くの東洋人と異なって日本人は、文を綴ることによって自分自身をさらけ出そうとする強い衝動を備えている。
日本人は世界進出計画についても、日常生活の細々とした事についても、文字を書きつらねた。
日本人は驚くほど率直である。
出典:菊と刀/ルース・ベネディクト/p22
って言ってるように、日本研究に於いて、文献には事欠かなかったようです。
世界的に見ても、日本語のブログが一番多いっていうデータもありますからね。
その点は、今も変わらないのかと。
西洋的な価値観が雪崩れ込んできた戦後の日本
戦後の日本は、アメリカを手本に復興してきました。
1956年(昭和31年)、経済白書で「もはや戦後ではない」と言われるほどに。
1964年には東京オリンピックを開催し、そのまま高度経済成長へと時代は進んでいきました。
更に、インターネットによる、グローバル化の波が溶かす、国同士の境界線。それに伴って、混ざり合う価値観。
この本が執筆されて、70年以上の時を超えた今となっては、寧ろ、ルース・ベネディクトと同じ目線で、過去の日本人を見る事になるし、そうすることしかできないとすら思うんですよ。
何故なら、戦後は西洋的な価値観が日本を呑み込んだからです。
それくらい、価値観や感覚は、半世紀以上の時間によって刷新されました。
それ故に、残ってるものもあるし、残ってないものもある。
なんとなく埋もれ切った魅力や、淘汰されつつある価値観が何処かにあるんではないか?
じゃあその固有性って何だ?
菊と刀はアメリカのプロパガンダだった?
因みに【恥の文化という神話】という書籍では、「【菊と刀】は、原爆を落とした罪悪感を正当化する為のプロパガンダだ!」っていう見方もあって、気にはなりますね。
まぁ確かに【菊と刀】の冒頭には
日本人は、一体何をしてくるだろうか。本土上陸をせずに日本を降伏させることは可能であろうか。皇居は、爆撃の対象とするべきだろうか。日本人捕虜については、どのような行動が予想されるだろうか。
日本軍と日本本土に向けた宣伝(プロパガンダ)において、わたしたちはどのようなことを言えばアメリカ人の命を救い、日本人の徹底抗戦の決意をくじくことができるだろうか。
出典:菊と刀/ルース・ベネディクト/p16
って記されてます。実際に、プロパガンダって明言しちゃってますね。
しかも、ルース・ベネディクトは大学の教え子に「この本は読むな」とか言ったって話もあります。
それが、政治的なイデオロギーに基づいた創作だからだっていうのが、【恥の文化という神話】で綴られている仮説。
んー…とかなんとか言われちゃうと、僕はただ、日本人の【恥】に対する感覚を知りたかっただけなのに、めんどくさい事に踏み込んじゃったなってのが、正直なところです。
全部、嘘っぽく見えてくる。
勿論、【菊と刀】の本文には事実誤認な部分も散見されますけど、文化人類学的な視点に於いては、完全に荒唐無稽な事を言ってるようには思えないし。
僕には寧ろ、勤めてフラットな目線で日本を語ってるようにも見えたのだけれど、それは当時を生きた人間ではないからそう感じるのかな?
仮に、【恥】を司る感覚を持っていたなら、テキトーな事を並べてるルース・ベネディクトに対して、「この人何言ってんの?」って言えるからね。
少なくとも、【菊と刀】という本が淘汰されずに、現代でも読まれ続けてるって事を鑑みるなら、完全なる創作とも言えないんじゃないんでしょうか。
或いは、それに気付けない日本人が、単にバカなだけなのか。
【恥】とは世間と自分との相対的な目線に依存する感覚
ルース・ベネディクトは、西洋の【罪】の文化と、日本の【恥】の文化を対比させていました。
罪の文化は内面の良心に依存し、恥の文化は外面の圧力に依存するっていうイメージですかね。
そうすると、「日本人には罪悪感が無い」と言ってる事に等しい訳です。
だとするとですよ、アメリカに比べて、日本の方が圧倒的に治安が良いのは、なんなんですかね?恥の文化だからですか?
罪の文化には、自制心は働かないのかな?
便宜上、道徳規範の違いを内と外に分けているようですけど。あくまで傾向の話なので、そこは勘違いしないようにしないといけない。
さて、罪の文化ってのは、キリスト教の影響が大きい価値観ですよね。
武士道の冒頭でも、ベルギーの教授に「宗教が無いのにどうやって道徳を教えるんダヨ!?」って、新渡戸稲造自身が言われてるけど、西洋では神との約束事として、道徳が規定されている。
何故なら、神に見られてるからっていう感じ。
逆に日本人は、世間に見られてるからっていう感じですよね。
見られているとは言え、西洋の神は、自分の内面にある訳だから、内的な道徳規範って事になる。
ところが、【恥】ってのは、他人との相対的な関係性を前提とした道徳規範です。
相手に対して、世間に対してっていう目線が、外部からの強制力として働く。
それ故に、自分自身がどうしたいかとか、やってはいけないとかっていう規範が、内側以上に、外側にある。
それがルース・ベネディクトの主張。
なるほど、確かに一理ある。
例えば、自由と平等に価値を置くアメリカ人の主張からすれば、「誰の世話にもなってない」ってのが一般的な思考様式です。
しかし日本人はこう考える。「人は常に、世間の世話になっている」と。
人間は世間のおかげをこうむっている。
一人前に育ち、教育を受け、幸福な生活を送っているのも、いや、この世に生を受けたと言う単純な事実すら、世間のおかげである。
ところが欧米人は、それを極度に軽視する。
日本人が私たち欧米人の行動の動機を不適切だと感じる理由は、その点にある。
同じ人格者でも日本人はアメリカ人と違う。「だれの世話にもなってない」とは言わないし、過去を軽んずることもない。
出典:菊と刀/ルース・ベネディクト/p157
今でも、大人同士の会話でよく「お世話になってます」って言うのは、そういうところから来ているのでしょうね。
SNSの承認欲求と【武士は食わねど高楊枝】の見栄
浅学ながら、【武士道】や【菊と刀】を読んでいると、日本って、面目に対する執着強いよなーって思います。
一見、日本人という人種は、ただの見栄っ張りにも見えるし、なんだか自意識過剰にも見えます。
それだけ、外側の体裁を意識しているからです。
恐らくこれが、本音と建前っていう概念にも繋がって来るのでしょうね。
ところが、日本人には、個人の意思は二の次っていう考えも根付いている。
所謂、滅私奉公です。
そうすると、何か矛盾しますよね。
体裁を意識する割には、「俺を見ろ!」っていう、ナルシシズムのような動機があるようには見えない。
そうすると、どうやら自己顕示欲の強さから来る、外観への意識でもない。
寧ろ、はみ出さないように、合わせに行くようなイメージすらある。(これが和の国と言われる所以でもある)
そう考えると、現代に於けるSNSの、キラキラした発信の背景にあるものとは、ニュアンスが一味違うのかな?
所謂、承認欲求を動機とした、体裁への意識のような。
いや、都合の悪い実情を隠しているっていう点では、【武士は食わねど高楊枝】と同じなのか?
例えば、スティーブ・カッツが担当したアメリカのバンド、MobyのMVには、画面の中だけキラキラしてて、実質その裏はボロボロの女性が描かれています。
スマホのデジタル空間と、現実とのギャップへの風刺ですね。
これも、痩せ我慢してるっていう点では【武士は食わねど高楊枝】的な行動原理とも取れますが、どう思います?
腹減ってんのに、強がって「腹減ってねーし!満腹だし!」って言ってるのも、受け取り方によっては幼稚に見えませんかね。
いや、めんどくせーな、素直に腹減ってるって言えばいいじゃないのと。
以下の記事で紹介した、ゾロの態度がカッコよかったのは、文字通り命懸けで痛みを一身に引き受けて、七武海の脅威を退けた上で、「何も無い」と言い張るからです。
参照記事:「…なにも!!!なかった!!!…」【武士道】の観点からONE PIECEを読み解く【ゾロ】が死ぬ程カッコいい理由(スリラーバーク編)
自己顕示的な要素が、一切無いじゃ無いですか。
寧ろ、仲間のために隠すっていう、ゾロの態度は義理と人情だったんじゃないんですかね。
そう考えると、同じ痩せ我慢でも、似て非なるものだなと解釈できます。