シュプレヒコール(RADWIMPS)の歌詞の意味を考察してみる
おはようございます。mikioです。どうも。
今回は、2012年にリリースされた、RADWIMPSのシュプレヒコールっていう曲を、考察してみます。
勝手ながら、個人的に【シュプレヒコール】はRADWIMPS史上、最高傑作だと思っています。
バンドのフロントマンである、野田洋次郎(敬称略)は、換喩(メトニミー)の使い方が秀逸なんですよね。
換喩ってのは、比喩の一種です。
所謂、「全米が泣いた」みたいな事です。
その点、【白と黒とがやりあってる】っていう、抽象度上げまくりの表現は、見事だとしか言えない。
これ、最近の話に置き換えると、捉え方によっては、白人と黒人の差別の歴史っていう切り取り方も可能ですよね。
2020年5月末に、アメリカで起こったデモ運動と、どこかリンクする部分があります。
今SNSにアメリカでの黒人差別に関する多くの動画/写真が流れてる中で、自分が最も力強いと感じた、それぞれ世代の違う3人の黒人が話す2分弱の動画に日本語の字幕を付けました
理不尽な社会に生きる彼らの発する言葉ひとつひとつの重みを、英語を日常で話さない日本人の方々にも是非知って欲しいです pic.twitter.com/aB9RdiTiPh— yösuke (@avril24th) June 1, 2020
6月頭くらいに、Twitterのタイムラインで、この動画が流れてきました。
「何百年以上、何世代にも渡ってこのプロテストは続いている」とカーティス・ヘイズ・ジュニア(31歳)さんが語るように、何も変わらない差別の歴史がある。
これ見てたら、電車の中で涙が止まらなくなってしまいました。
それ以来、アメリカの歴史を調べる事に。
その辺の話は、以下に音声として録ってみたので、併せてどうぞ。
実は、今回の記事は、このアメリカでの黒人差別へのデモが、キッカケだったりします。
アイヒマンか、スターリンか、どっちか定かではないんですが「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」って話をしている人がいました。
これは的を得ています。
差別問題が、スマホとSNSという媒体に乗って、パーソナルなところまで降りてきた映像があったからこそ、僕の感情は動きました。
例えば、「今日1日の、コロナウィルスの感染者は数百人です」
とか言われるより、その中の1人の物語に焦点を当てる方が、人の心は動くって事です。
さて、本題に入ります。
シュプレヒコールの「述語と主語がやりあってる」ってどういう意味?
今日も世界のあちらこちらで
述語と主語がやり合ってんだ
文脈さえ通り越しちゃえば
きっと平和の世界征服さ
出典:シュプレヒコール
RADWIMPS/野田洋次郎
これはどういうことか?
長いこと考えていました。
述語と主語がやり合ってるっていうのは、それこそ【文脈の話】をしているって事だと思うんですよ。
ここで言う文脈ってのは、「今日も世界のあちらこちらで」って言ってるように、地球上の人間、延いては生物の営み、そのものを指しています。
例えば、なんでもいいんですけど
- 荷物を持ち上げる
- 扉を開ける
- カレーを味わう
- 天を仰ぐ
- 貴重品を預ける(預かる)
- 水を与える
- 心を操る
- 車を洗う
- 虫が集まる
- 本を売る(買う)
みたいなことです。
僕のイメージだと、誰が(主語)、どうした(述語)とか、何が(主語)、どうなった(述語)っていう、人間が捉えることのできる行動様式とか、様々な現象が浮かび上がってきます。
地球上の歴史ってのは、これまで途絶えることなく、連続して繋がっています。
この短いフレーズで、その【連続】の部分を、状況説明してるんだと思うんですよ。
ただ、その後に、「白と黒とがやり合ってる」っていうフレーズが出てくるので、何回かシュプレヒコールの曲を聴いてると、述語と、主語が、衝突しているっていうイメージが強まってしまうかもしれません。
ここでの「やり合ってる」っていうのは、人間の営みに対する情景描写であって、「ぶつかり合ってる」っていう、二項対立の話ではないんだと思ってます。
「やりとりをしている」とか「行き交ってる」っていう、交錯したイメージを述語と主語っていう部品を使って、描いている。
つまり、世界中で「言葉が飛び交ってる」っていう、ニュアンスの描写なんだと思うんですよね。
で、文脈さえも通り越しちゃえばってのは、国境の壁を越えるってことなのか。
文化の違いを超えるってことなのか。
これまでの歴史の連続性が形作った、文脈を越えるってことなのか。
いずれにしろ、【平和の世界征服】っていうフレーズから見ると、人種とか、文化とか、自分達を隔てている【違い】さえも飛び越える事ができたなら。
ってことなんだろうな。
野田洋次郎というソングライターは抽象度(目線)のチューニングが上手い
そんな感じで、めちゃめちゃスケールのでかい話だし、目線は超メタなところにあります。
野田洋次郎というソングライターは、マクロな視点が得意なんだなーと思います。
神と仏のダイアローグを、まるで童話のようにコミカルに描いていたり。
輪廻転生的な宗教観を使って、「前前前世から、来来来世にやってきました。うへへ。」っていう、大袈裟なまでの世界観にまで発展させてしまったり。
時空をも超えてしまうくらいのスケール感なんだけど、実態は、月並みな恋愛の話だったりする訳で。
冷静に見たら、「いや、そんなわけないじゃん」っていう、ナンセンスな批判をして終わってしまう話でもあるんだけれども。
だって、彼氏・彼女からいきなり「前前前世から逢いに来たよ」とか言われたら、普通にヤバい奴じゃないですか。
それが、【君の名は】というアニメーション映画と、そこに寄り添うように作られた【RADWIMPS】の楽曲っていう、2つの文脈に乗っかる事によって、得体の知れない感動に繋がっていくんだと思うんですよ。
(実は、未だに【君の名は】という映画は見れてないのです。言ってることズレてたらごめん)
音で表現されている【大衆】としてのノイズ
ぐっちゃぐちゃの、ノイズの気持ち良さってのがあると思っています。
それは、心境によっては「聴いてるのがツラい」っていう音色だったりします。
うるさいのに、心地いいってのが、ノイズの不思議なところです。
例えば、銀杏Boyzっていうバンドのノイズは、まさにそれに該当しますね。
何故に、こんなビリビリとやかましい音なのに、爽やかなんだろうか。
或いは、9mm Parabellum BulletのDiscommunication(ディスコミュニケーション)とか。(2:50以降)
文字通り、ギターを掻き鳴らしている部分です。
THE NOVEMBERSのバースデイとかも、このイメージ。
で、シュプレヒコールも、サビ前で、ギターがぐちゃぐちゃにやるんだけど、これが心地いい。
今は地デジになって見られなくなったけど、アナログ放送で見れた、テレビの砂嵐(ホワイトノイズ)のようなノイズ感。
雪崩のように暴力的で、カタルシスのように心地よく、崩壊した街のようにカオス。
因みに、子宮の音もホワイトノイズだけど、実際は、低音の雷鳴みたいな音らしい。
従って、ホワイトノイズってのは、人間にとっては馴染み深い音なのかもしれない。
全然、憶えてないけど。
さて、シュプレヒコールに於いては、このノイズが、【大衆】が作り出す【うねり】として表現されているように感じます。
これが音楽の面白いところ。
曲(ポップミュージック)の世界観ってのは、音に依存します。
そして、音が言葉のバーチャルリアリティ(世界観)の輪郭を補完してくれるのです。
歌詞ってのは、言葉だけでは成立しません。
言葉と音が重なってこその、歌詞です。
言葉の世界と、音楽の世界が、オーバーラップするから、臨場感と共に情景が映像化される。
例えば、BUMP OF CHICKENのメーデーのリフって、めっちゃ潜ってません?
アルペジオでも、オクターブでもない方の、全音符的な長い音符(俗に言う白玉)の、和音で「ジャーン」って、やってるやつ。
あのコードの音色って、メーデーの文脈の中で鳴らされると、泳いでる感がすごいんですよね。
光が届かない海の色のような、黒に近いネイビーっぽい情景が浮かびます。
アルペジオが、水中の泡というか、宇宙の星というか、そういう映像になる。
僕の頭の中に浮かぶイメージを言語化しようとすると、こんな感じになります。
隠しトラックに「星のアルペジオ」っていう曲があるけど、藤原基央(敬称略)のアルペジオって、ホントに【星】っぽいんですよね。
宇宙感がすごい。
冷たい声の合唱に 希望の度を越えた歓声に
もみくしゃになったまま 走らせた今日を
右向け右の号令に 正気を失った万歳に
しわくちゃになったまま 明日を迎えにいくよ
出典:シュプレヒコール
RADWIMPS/野田洋次郎