【リメンバー・ミー】を見たら膝の上に座る娘の頭皮に涙が落ちた【映画感想文】
出典:『リメンバー・ミー』リー・アンクリッチ監督が絶賛する日本版ポスター解禁!
出典:©Disney
おはようございます。mikioです。どうも。
数ヶ月前の話になりますが、3月か4月あたりに娘とリメンバー・ミーを見に行きました。
目当ては同時上映の、アナと雪の女王だったんですよ。
従って、リメンバー・ミーの認識に関しては、寧ろおまけ感覚であり、特別期待していた訳ではありませんでした。
しかしこれが、結論から言うと凄く良かった。
プリキュアと、どっちにしようか迷ったんですが、プリキュアじゃなくて良かった。
この二者択一を、リメンバー・ミーへと導いた動機は以下の通りです。
- 娘がどっちも見たそうだった
- 巨大なスクリーンでエルサとアナを見せてあげたかった
- 映画館に着いた時間にリメンバー・ミーが開演していた
- 娘が眠くなるタイミングや、「おなかすいた」と言い出すタイミングから逆算すると、開演時間は早ければ早い程良い(プリキュアの開演時間は少し待つ)
以上の理由で、すかさずリメンバー・ミーの劇場内に滑り込んだ訳です。
娘の身長からだと、直に劇場の椅子に座ると、視界が前方の座席の背もたれに塞がれてしまい、スクリーンが全然見えていません。
故に、膝の上に乗せての鑑賞でした。改めて3歳児って小さいなと実感。
さて、今回はネタバレありの、リメンバー・ミー感想記事となっています。
リメンバー・ミーは家族に強い焦点を当てた傑作だった
この映画を見た後、おそらく誰もが、家族と、その命の連なりを意識させられてしまう現象に、入り込むと思います。
自分の親と、その親と、その親。
逆に言えば、自分の子供と、その子供と、その子供の事まで、考えが及ぶんですよね。
それほどに、大きな流れを感じる映画でした。
例えば、以下の動画によれば、現代人と同じ身体的な特徴が形成されてから、僕らは概ね7500世代目の子供のようです。
なんか、「リレーみたいだな。」と思います。
僕らは生まれた時、アンカーな訳です。
このままゴールまで走り切ってもいいし、バトンを次に手渡してもいい。
ただ、この【バトンを手渡す】っていう行為は、自分の意志だけでは成立しない出来事なんですよね。
何かの縁がなければ、成立しません。
何故なら人間は、精子と卵子の結合によって生まれるからです。
精子だけじゃダメだし、卵子だけじゃダメですよね。
つまり、男と女。異性同士が、互いが互いを選び取る事によって、命は爆誕する。
このプロセスが前提となるので、命の連なりが、自分の元まで到達したってのは、すごい事だと思うんですよ。
だから、自分の子供が生まれたっていう事実を改めて眺めると、生き物としては「次に繋げたな」っていう、妙な安堵があります。
仮に自分が死んでも、自分の子供がこの世に残る。
そんな、生物としての幸福感みたいなものがある。
僕も、あなたも、こうして存在している時点で、概算で7500×2人分の命をこの肉体に受け継いでいる事の顕れなんですよね。
という事はですよ。
地球上に生命が誕生したのは、概ね38億年前だと言われています。
従って、こうして遺伝子が途切れずに続いている時点で、38億年分生きていると、解釈する事も出来ますよね。
つまり、現在地球上に生き残っている生物は、須く38億歳であると。言えなくもないんじゃないでしょうか。なんだか壮大な気分です。
映画【リメンバー・ミー】を鑑賞して感じた3つの感想
- 死者のデザインがマイルド
- 主人公の少年、ミゲルの挙動がすごく少年
- 弾き語りの描写がちゃんと弾き語っている
リメンバー・ミーは死者のデザインがマイルドで怖くない
この話のメインステージは死者の世界であり、死んだ人達みんな、骨の状態で登場します。
ガイコツって、見せ方によってはめちゃめちゃ怖いものにも出来てしまう素材ですよね。
しかしそこはピクサー。ちゃんとコミカルな体裁に消化されています。
ストーリーの構成からして、怖さはメインじゃないですからね。
以下は、共同監督であるエイドリアン・モリーナ(敬称略)のインタビューです。
Q.ガイコツたちはかわいらしいデザインですが、ガイコツをかわいらしくユーモラスに描いた理由を教えてください。
「作品の中で死者というものを友人や家族として扱いたかったのです。『死者の日』の祭りは、自分の祖先と会う、つまり家族なので、それぞれのキャラクターがわかるようにマークをつけていたり、生前を思わせる服装をしたりしています。骸骨は怖くて誰かわからなくなりそうだったので、楽しく、親しみが持てて、一緒にいたくなるようなキャラクターにしました」
そういえば、怖いものって何故か、今も記憶に残ってますね。
幼少期に読んだ、オオカミの絵本が怖かったのを未だに覚えています。
もう一回読みたいんだけど、タイトルがわからないから、調べられない。
娘としても、2歳の頃の話になりますが、未知の概念に触れる際、最も気になるのが、それが【怖いか】、【怖くないか】っていう、相対的な感情の行方だったんですよね。
例えば、「みなとみらい行くよー」の返答は、「みなとみらい?怖くない?」でした。
「怖くないよー」と話すと、「しょーなのー?」と返ってくる。
そんな一連のやり取りが、よくあったんですよね。
怖いものなのか、怖くないものなのか。
これが一旦、どちらかにカテゴライズされる事で、娘的には気が済むようです。
絵本を読んでいる際も、それが気になってしまう為、「怖くない?」と聞かずにはいられない。
つまり、娘にとっては、かなり重要な物差しの1つって事ですね。
3歳になると、そういった発言はなくなりました。
因みに、リメンバー・ミーを見ている時に、怖がったりするような様子は無かったですね。
リメンバー・ミー主人公ミゲルの挙動がすごく少年
肩をすくめる感じや、自信の無さそうな上目遣い、常に困り眉毛、そして猫背。
12歳の子供特有の心理状態が、表情と挙動で表現されていて、直ぐに人間臭いミゲルが好きになってしまいました。
ギター少年な所や、肌が褐色なところにもシンパシーを感じたのかも知れないです。
音楽禁止とされている家族のルールに反しても、ギターをこっそり弾く程の熱意とか、誰にも止められない衝動を抱えているところとか、抗っている感じが好きです。
ギターの押弦描写がちゃんと弾き語ってる
たまに、ギターを弾いてる人物のイラストやアニメを見掛ける時、そのコード何?と云う押弦描写の時があります。
ギターを弾く側の観点から見ると、それだけで興醒めだったり、チープに見えてしまうんですよね。
押弦描写がお座なりだと、ギターがただの装飾として扱われているようにしか見えない。
その点、この映画はギターのフレットを押さえる指と、弾いている音がちゃんとギターしていて気持ちよかった。
ミゲルのギターへの熱量、延いては「音楽が好きなんだ」っていう想いが伝わります。
【リメンバー・ミー】に込められたヘクターの想い
さて、この物語を構成する上で、キーとなる歌なんですが、これがちゃんと良い歌なんですよ。
物語と歌が、見事にシナジーを起こしているし、歌が物語に負けていないんです。
僕の娘も、ふと「リーメンバーミ〜♪」って歌い出す事があります。
音楽を題材にする映画って、挿入歌の好感度が、そのまま映画の好感度に直結すると思うんですよね。
で、映画のタイトルであり、曲の題名であるリメンバー・ミーですが、この曲の真髄は、弾き語りにあると思います。
エンドロールでも、シシド・カフカ&東京スカパラダイスによって手掛けられたアレンジで流れるんですが、スカっぽいリズムになっていて、ポップな仕上がりになっています。
しかしこれがですね、個人的には「なんか違う」っていう感覚を、抱かずには居られなかったんですね。
このリメンバー・ミーっていう曲には、アコギと肉声以外は、入れてほしくなかったなぁと。ラッパとか、要らないなぁと。
何故なら、ヘクター(父)とココ(娘)が、一対一で向かい合って、弾き語りを聴かせるあの回想シーンを見てしまったら、陽気な感じにアレンジされたエンディングが、違和感でしかなかったからです。
これは、劇中の後半に、【リメンバー・ミー】っていう唄であり、その言葉の、本来の意味が描かれるシーンなんです。
僕はもう、あのシーンを刮目しただけで、映画館で膝の上に座る娘の頭皮に、涙を落としまくってしまう訳です。
なんでかって、お父さんが子供を大切に想うのって当たり前の事じゃないですか。
あのヘクターの眼差し。やばいって。泣くわ、こんなもん。
ヘクターは、娘のココ1人の為だけに【リメンバー・ミー】を作った。
だからこそ、リメンバー・ミーは、例えば、下手くそな歌でも、ギターを抱きながら訥々と歌う事で、魅力が爆発するような曲だと思うんです。
人が死ぬ時とはいつか?それは人に忘れられた時だ!
出典:ONE PIECE 16巻 172p
Dr.ヒルルク
この世界では、生者の思い出が、死者の存在を繋いでいます。
もし、特定の死者を憶えている生者から、死者の記憶が消えてしまった場合。
つまり、死んだ人との記憶を共有している人が、生者の世界から一人も居なくなってしまえば、その死者は、二度目の死と称され、死者の世界からも消えてしまいます。
この構造は、とても興味深いメタファーです。
ONE PIECEのチョッパー編に登場する、ヤブ医者ヒルルクも言ってましたね。
出典:ONE PIECE 16巻 173p
Dr.ヒルルク
人はいつ死ぬと思う…?
心臓をピストルで撃ち抜かれた時…
…違う
不治の病に犯された時…
…違う
猛毒キノコのスープを飲んだ時……
違う!!!
…人に忘れられた時さ…!!!
出典:ONE PIECE 16巻 173p
Dr.ヒルルク
Dr.ヒルルクは、この直後に笑顔で自殺しましたが、その後もチョッパーの記憶に生き、彼の信念を構成する血液として、心の中に流れ続けている。
【リメンバー・ミー】見たら「誰しも誰かの血を受け継いでいる」とか考えてしまう
此処での血とは、家族の繋がりとしての血筋の事は勿論、直接的、間接的、問わないです。
自分がこれまで出会って来た、他人から教わったもの。人格を形成している要素も含まれます。
例えばそれは
- 家庭の味やオフクロの味と称されるような、母の料理方法であり。
- ダンボールを畳む為にボールペンでガムテープを切り裂ける。みたいなバイト先の先輩のTipsだったりする。
いかに些細な事であれ、それをする時、教わった人の顔がぼんやり浮かぶって事、ありません?
行為と、先輩の記憶が、リンクしている。
子供の心に残るのは
親が与えてくれたものではなく
愛を注いでもらったという感覚である
出典:リチャード・L・エバンズ
この世に産み落とされてから、記憶に無い程、何も解らない最初が誰にでもあった筈です。
忘れちゃったけど、確かに息をしていた空白の時間。
その空白に、親から受け取った献身が、血液に流れているから、こうして今も存在していられる訳です。
それからも、自分自身で選んで来たお手本を、模倣する事で、今の自分の人格が形成されている。
つまり、誰もが誰かの影響を必ず受けている。
リメンバー・ミーを見ていたら、そんな事まで考えが及びました。