論理とは何か?デザインとの相関を考察【スピード編】
この記事では、スピードと云う観点から論理を考えてみます。
早速ですが、論理的な人と言うとどんなイメージを抱くでしょうか。僕なりの印象を以下に挙げてみました。
- 数字に強い
- 簡潔な文章に整理する
- 明快
- 定量的
- 機械的
- スマート
- 理詰め
- メタルフレームの角ばったメガネしてる
- 「何故ならば」って言う
- 服装が常にフォーマル(皺とか無い)
- “丸”と言うよりは”三角”とか”四角”の印象
改めて並べてみると、カチカチしてて、何処かロボット的なニュアンスが強いですかね。少なくとも、あんまり丸い感じはしませんね。
これらを無理矢理ミキサーにぶち込んで絞り出してみると、的確と云う単語が抽出される気がします。多分。
じゃあ論理的な人に対するイメージが的確だとして、何でそんなイメージを抱いたのだろうか。その人のどんなところに的確があったのか。そもそも、その人って具体的に誰を指すのか。
個人的には「あぁ論理的な人って、そうそう!正にこんな人だ!」と思わず言ってしまう位、自分のイメージに該当するエピソードが、19世紀最大の数学者。ガウスの少年時代の話にありました。
ガウスの逸話
彼が小学生の頃、先生が授業中に休憩しようとしたのか、雑用を片づけようとしたのか、実態は知りませんが、時間の掛かる問題を生徒に出題しました。
それが、1から100までの総和を求めろ。というものだったらしいのですが、普通は1+2+3+・・・+99+100と順番に足し算をしていく計算方法を取るかと思います。ところが、その方法をとらずに「5050」と即答した生徒がいました。それが、ガウス少年です。
等差数列
或る規則性を見抜いたガウス少年は、1~100までを並べた数列と、その逆の100~1までを並べた数列の解が同じである事を前提にして、1+100、2+99、3+98といったペアを作り、それぞれの合計が101であるペアを100個作りました。つまり101×100=10100です。
しかしこれは、始めから100までの数をすべて足したものの2倍になっているので、半分にして10100÷2=5050にした。 というもの。
比較すると、足し算を100回やるのか、一回の足し算と、一回の掛け算と、一回の割り算をやるのかの違いです。100回の計算と、3回の計算であれば、圧倒的に後者の方が早いです。
現在の数学体系ではこのような等しい値を足して増えていく数列を”等差数列”と呼ぶようです。
アルゴリズムの発見
僕が思う論理的な人のイメージって、こんな風にアルゴリズムを作っちゃう人の事を指します。小手先の工夫で、なんとか1.5倍のスピードは出せるかも知れませんが、アルゴリズム自体を変えてしまえば、簡単に10倍20倍の高速化が図れるのです。
流石に此処まで来ると天才の域になってきますし、この場合”論理”と言うよりは”閃き”(飛躍)の比重の方が大きいのかなとは思います。
「こうした方が楽だし早いじゃん」
そんな言葉が聞こえてきそうな”効率化“や”最適化“を図る事は、物の道理である”手順”を把握していなければ着手出来ません。
だから所謂仕事のできる人ってのは、このアルゴリズムを自分なりに構築して、的確に使い分けている人なんだと思うのです。その場に応じて、適切な判断と行動でピンチを切り抜ける事が出来る人の人間的な背景には、そんな情報処理の過程があるんだと思います。
勿論、誰だって最初からそれが出来る訳じゃなくて、その判断と行動を的確なものにする為にはやはり、場数を踏んで良い経験を積むしかない。
俗に言うセンスはそこに宿るのでしょう。
的を得る
例えば、楽器でもスポーツでも、初心者が技術的に上達しようと思ったら、練習しますよね。
その時に、何も考えずにひたすら闇雲に反復する人と、試した事とその結果(効果)の因果関係を試行錯誤しながら反復する人とでは、大きな差が開く事になります。
此処にも根拠が必要となるのです。何故なら、的外れな練習をしていたら努力は徒労に終わるからです。自分に今足りないものは何かを、客観的に分析し改善する為にも、論理はマストです。
競争に勝つと云う目的が設定されている限り、根拠レスに努力するだけでは、人が持つ貴重な時間も労力も無駄にして終わります。
直感だけで結果を出してしまうような、わけのわからないぶっ飛んだ天才や変態でなければ、削った命をドブに捨てて時間切れです。
極端に言えば、野球選手がリフティングの練習ばかりしていても、結果には結びつかない訳です。
うさぎ跳びなんてのは、効果が期待出来ないトレーニングの典型でないかと思います。或いは水を飲むなとかいう迷信。
当時はそれが、正しい練習の一環だと信じられていた訳ですが。これは今となっては最早有害な影響しかない。
スポーツの練習メニューは年々、科学的根拠に基づいて進歩しています。現に、日本人に破れなかった100m走9秒台の壁を、2017年9月に、桐生選手は突破しました。勿論、本人の努力と才能ありきの結果です。しかし、此処に練習方法の進歩による影響が無かったとは思えません。
人間の持つ時間は有限です。スポーツであれば、選手生命なるものがあり、怪我。或いは年齢的な衰退によって引退を余儀なくされます。特に激しい動作をすれば肉体の消耗も激しくなります。
時に練習量の多さは、選手に自信を齎しますが、オーバーワークになってしまっては元も子もない訳です。本番で結果を残さない事には、自分の優位性は証明出来ません。
つまり、肉体が激しい動きに耐えられる若さで居られる短い期間の中で、如何に競争相手よりも高速で技術を学習し、自分の身体に相応しい方法で最適化を図る事ができるか。
延いては、故障する手前ギリギリまで適度な負荷を掛けて、合理的にパフォーマンスを高められるかが重要になってきます。
スポーツに限らず、遅いってのは致命的なんですよね。
間に合わないものに価値は無い
これは僕が身を以て、今までの経験から痛感している教訓です。