論理とは何か?デザインとの相関を考察【スレッド編】
WEBデザインに片足を突っ込むようになってから論理性と云うワードが脳内をチラつくようになりました。
というのもデザインのアプローチ方法、コーディングのアプローチ方法と共に、知識の前提として論理性がそれらの根底に根差していると感じられる側面が、幾つか見受けられたからです。
という事はつまり、論理を理解する事が出来れば、デザインとコーディングの理解を深める手掛かりが掴めるのではないかと、推測しています。これを自分なりに纏めてみます。
かなり長くなってしまったのでシリーズに分けます。
論理の多義性
早速ですが、論理的だね。と云う言い回しには、どんなニュアンスが含まれてるのでしょうか?
筋が通ってるねって事?
話が順序立っていて、解り易いねって事?
情報が整然と区別されてるねって事?
正しい推論だねって事?
凡ゆる辞書やwikipediaを見ても共通するキーワードは「筋道」とあります。
でも筋道って何なんでしょうか。それだけでは抽象的でピンと来ないですね。具体例が欲しいです。
故に調べるのだけれど、論理の持つ多義性が原因で、未だに実態が掴めない。知りたくてしょうがない。
昨年あたりから、論理について興味関心が向いてからと言うもの、書店に訪れる度に、論理に関する書物を漁るようになりました。仕舞いには、論理学の入り口にまで辿り着いてしまった。
もし見かけたら、一度開いてみて欲しいです。内容はまるで数学です。
筋を通す
一本筋を通す。と言うと、なんだか仁義を重んじる、漢気溢れる世界のようです。
意味を調べてみると
【筋道】とは
物事がそうなっているわけ。事の条理。道理。「筋道を立てて話す」
物事を行うときの正しい順序。「筋道を踏んで事を進める」
とあります。つまり論理とは、どうやら問いから答え(目的)に至るまでのプロセスの事を指すっぽい。
じゃあプロセスって何だろうか。やはり知りたいのは、そのプロセスの中で具体的に何が起きているのか。という事なんですよね。
抽象と具体を横断する
このように、人が理解に至るまでの過程には、抽象と具体のセットが必要となります。
抽象とは、複数の具体の中から共通する本質を捉える事で、纏めて一つの塊として扱う事です。
言い換えれば、本質以外を無視する事とも言えます。
一方で、具体とは、誰が見ても同じ絵として認識出来るもの。
例えば、ライオン。ジャガー。チーター。虎。この辺は具体です。
これを抽象化してみると、ネコ科となります。更に抽象化すると、哺乳類、更に更に抽象化すると動物。となります。
所謂、木を見て森を見ずと云う諺(ことわざ)は、抽象と具体の対応関係をよく表しています。此処で言う木が具体で、森が抽象と対応しています。
人は具体だけだと、つまり何?となるし。抽象だけだと、例えば何?となるのです。このつまりと例えばを往復する事で概念の輪郭が見えて来ます。
SHOWROOM社長の前田裕二(敬称略)が、TV番組でこんな事を言っていました。
“例えば“に続く具体の数の多さは、演繹というよりは帰納した数に依存する。
自分はどうも、抽象から具体への移動が苦手ですね。で、コミュニケーション能力が高い人ってのは、この具体のストックを沢山持っている人なんでないかと思っています。
何故なら、会話って、過去のエピソードを滞りなく話せるかどうかで、スムーズに転がるかどうかが変わるからです。記憶の引き出しが多ければ、話の流れに合わせた体験談を話せる訳です。
しかし、この記憶。誰かに伝えようと常に意識していなければ、直ぐに引き出せる状態として保存されません。つまり、出力しないと忘れるんです。
そして僕のように、雑談を重視して来なかったような気質の持ち主だと、率先してその機会を作らないから、余計に旧態依然のまま。ってな訳であります。
そんな態度から、コミュニケーション能力が培われる筈が無いんですよ。
一つ一つ丁寧に連ねる
僕が現時点で見えている論理像は、順序立てて一貫した文脈を、一段一段繋いでゆくイメージです。
ある前提から結論を導いて、その結論を前提にして、更に精度の高い結論を導き出すような連なりを形成する。
記号にすると、Aだから、B。Bだから、C。Cだから、D。のように、因果関係を引き継ぎながら矛盾の無いよう一貫した文脈を繋ぐ事で、推論を展開する技術。
これがつまり筋道のプロセスだと認識しています。
例えば、友達との待ち合わせ場所を都内のカフェと指定した場合。
仮に名前と場所しか知らないと仮定すると、先ずは自宅からカフェまでの経路を調べますよね。
電車は何線に乗るのか、乗り換えるのか、駅からは歩くのか等。
今はアプリで時間と目的地を設定すれば直ぐに調べられます。そして待ち合わせの時間から、逆算した出発時間を想定します。これもれっきとした筋道。
例えば、道を聞かれた場合に、ここをバーっと行ってあっちの方にガーっと行けば着きます。じゃあ伝わらない訳ですよね。
丁寧に言えば、直進して此処から3つ目の信号を右に曲がって、セブンイレブンが見えたら左に曲がって下さい。と言えば明快です。
この、積み木を一段一段積み上げるような丁寧さが実は、論理的な態度と言えるんでないかと思うのです。
普段、無意識にチャンク化し、自動化している行動を、改めて意識してみると解るかも知れません。
例えば、起床から学校や職場に行くまでのプロセスを、以下のようなステップに、丁寧に分解してみると
朝起きる→顔を洗う→歯を磨く→なんか食べる→着替える→準備する→玄関のドアを開ける。
と大体こうなります。
朝起きると云う大前提が無ければ、いきなり玄関のドアが開く。なんて事は成立しない筈です。
飛躍の典型
此処で重要なのは話の軸です。
幾ら文脈的に繋がっていても、話に軸が無いと突飛な結論に辿り着いてしまいます。その最たる典型例が風が吹けば桶屋が儲かると云う、諺の中にあります。以下はその一覧です。
- 大風で土ぼこりが立つ
- 土ぼこりが目に入って、盲人が増える
- 盲人は三味線を買う(当時の盲人が就ける職に由来)
- 三味線に使う猫皮が必要になり、ネコが殺される
- ネコが減ればネズミが増える
- ネズミは桶をかじる
- 桶の需要が増え桶屋が儲かる
一見筋道立ってるように見えますが、論理の文脈で見れば、論理展開が自由過ぎますね。強引な飛躍の連続です。従って結論の信憑性に欠けます。
確かに、アイディアとか発想の部分であれば、逆に飛躍が必要になるかと思います。
しかしながら、論理は飛躍があるとマズイんですよね。筋道ですから。
物語的な筋道
風が吹けば桶屋が儲かるは本来、ある事象の発生により、一見すると全く関係がないと思われる場所・物事に影響が及ぶことの喩えとして、扱われている諺です。
これを、物語のラストシーンの加速度を高める装置として、エンターテイメントに昇華させている映画があります。
フィッシュストーリーと云う伊坂幸太郎(敬称略)原作の映画です。
ご覧になった方なら、劇中パンクバンドの逆鱗による曲、FISH STORYと共に畳み掛けるラストシーンのあの、布石のピースが一気に嵌ってく爽快感を体感済みかと思います。
流れを追っていると、一見、断片的な短編ストーリーが羅列されるだけのような印象なんですが、帰納的な展開で最後の最後に全てが意味を持って繋がってしまう気持ち良さ。筋が通るってあんな感じの事だと思うんです。
ドキュメンタリーか何かで見たんですが、羽生善治(敬称略)の終盤戦の将棋も、そんな感覚でしょうか。
解説陣も困惑してしまう一手が、後から意味を持って来る事が解るような。
この場合、結果を見ないとプロセスの意味が解らないので、伝える論理としては不向きですが、筋道としてはこんな筋もあるって事ですね。
まとめ
今回は論理の筋道について、考えを巡らせてみました。
人が理解に至るまでの過程を理解する事で、情報の相応しい並べ方が見えてきます。
そして、情報伝達としての筋道と、物語としての筋道はニュアンスが違います。
これは論理を、情報を効率的に伝える為に使うのか。人の感情を動かす為に使うのか。の違いなんだと思います。どちらにしろ、ベースとして筋道が機能して来ます。