文章コンテンツの価値は【ヘウレーカ】の缶詰に宿る
【キャンズメイル】とかいう、訳のわからないブログを立ち上げて1年半。
漸くこの記事で、100記事目となります。
言い方を変えれば、僕は仮説を100個立てる事が出来たって事でもあります。
それはひとまず、区切りとして素直に喜んでいいのかなと思っています。
とは言え、100記事なんて、人によっては3ヶ月くらいでまとめてしまう人も居るようで、相対的に見れば、僕は記事を綴るのが恐ろしく遅いって事にはなりますが。
いや、これでも一応、早くはなってるんですよ。
最初の頃なんて、1記事を綴るのに、2週間とか、下手したら1ヶ月かかってましたから。
なんでこんな事してるんだろう?って自問してみると、言語化したいんですよね。
「上手く言えない」っていう言い訳を、自分に言う事にもう、うんざりしてます。
ぼくは言葉が上手く言えない
未だに、くるりの【東京】みたいな。
君がいるかな 君と上手く話せるかな
まぁいいか
でもすごく つらくなるんだろうな
出典:東京
くるり/岸田繁
ハンバートハンバートの【ぼくのおひさま】みたいな気持ちが、根底にはある。
歌ならないつだって
こんなに簡単に言えるけど
世の中歌のような
夢のようなとこじゃない
出典:ぼくのおひさま
ハンバートハンバート/佐藤良成
僕は、非言語寄りの脳だから、学生時代は全然喋れなかったんですよ。
だから今までずっと、絵とか音楽とかに頼って来た。
今も、頭の中で言葉を整理するのは苦手だけど、ブログのおかげで少しマシになったかな。
別に正しい事を言いたいんじゃなくて、自分が感じた事。
それに伴って、考えた事を言語化しておきたいだけなんです。
だから、あんまり間に受けてほしくないとも思っています。
この記事では、自分にとってブログってなんなんだろう?って事を再考してみます。
【文章】という名のコンテンツの価値ってなんだろう?
面白い文章って、なんなのかって事を考えると、僕は2つの評価尺度があると考えています。
それは
- 繋がってる事
- 代弁してる事
です。
自分のブログでは、この2つの事を意識しています。
ブログの価値って、フィルターの価値だと考えています。
言い換えると、目線です。
あのバンドが好き。この漫画が好き。
これってつまり、作ってる人の目線が好きって事です。
フィルターがユニークであればある程、ブログもユニークになる。
【アイディアのつくり方】は既存の要素の組み合わせ
こんな言葉を聞いた事ありませんか?
アイデアは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない
アメリカ最大の広告代理店、J・W・トンプソン社の最高顧問を務めたジェームス・W・ヤングが言った、有名な言葉です。
これは、【アイディアのつくり方】という本の中で、語られているものです。
この本、必要最低限の事しか書いてないので、めちゃくちゃ薄い。
基本的に、本質的な事ってあっさりしていて、数行で終わってしまったり、10分くらいで語れてしまうものだったりします。
でもそれだと、本が売れないので、どんな本も【101個の法則!】みたいな事を言って、ボリューム感を演出し、かさ増しされてるもんですよね。
で、【アイディアのつくり方】は、それをしてないんですよ。
プラモデルを組み立てるかの如く、アイディアの製造工程が記されています。
繋がってるって何なの
さて、此処で言う、面白いコンテンツ=【繋がってる】ってのは何か。
人間は本来、【繋げようとする】事とか、【繋がっちゃった】事に対して、「楽しい」って思う性質を持ってるんでないかと考えています。
2つの要素が、距離的に遠くにあればある程、繋がった瞬間、「あぁ!」っていう快感情は、増幅される。
例えば、【謎掛け】がそれに該当します。
「◯◯と掛けまして、◯◯と解きます。その心は……」
この「◯◯」に該当する概念が、遠い位置にある程に、繋がった時の意外性が激しさを増すんです。
この意外性が、人の感情を動かす訳です。
所謂、「ねずっちです」状態。
「ヘウレーカ!」って言いたいだけ
「あぁ!そうか!」っていう、快感情。
ギリシャ語だと、「ヘウレーカ!」
因みに、このヘウレーカって言葉は、アルキメデスが【アルキメデスの原理】を発見した時に、思わずお風呂で叫んじゃった言葉だったりします。
で、僕はこのブログで、ヘウレーカを沢山つくりたいんですよね。
自分を含めた誰かが、このヘウレーカを後で食えるように、サバ缶みたいに、缶詰めに詰め込んでおきたい。
そうやって、繋げて繋げて、脳内のリンクの数を増やして、でっかいパズルをつくりたい。
つまり、類比を繰り返して、帰納的にヘウレーカを探す。
読書に限らず、見聞する全てのものを、特定の枠に収めるイメージ。
インプットとして、記憶にばら撒いた情報が、何処かで繋がるのを期待する。
情報と情報を横断し、見つけては繋げる。それを繰り返す事で、知識は収斂される。
そうやって、自分の抽象度の限界値を上げていく。
— みきお▶︎100冊読書挑戦中 (@mikio_96) 2019年6月27日
自分で勝手に、星座を作っちゃうみたいな事です。
星同士を繋げて、脳内で勝手にプラネタリウムを作っちゃう訳です。
自分で自分の記事を引用しながら、視座の抽象度を上げていく。これがこのブログの最終目的。
代弁してるって何なの
特定のバンドの歌詞に共鳴してしまうのは、自分が言葉にして言えなかった事を、言い切ってるからです。
放送大学の映像が、催眠術のように眠くなるのも、街頭演説の話に一切興味を示せないのも、当事者意識を持てないからです。誰に言ってるのか明確でないのです。(それ以外の要因もありますが)
「みなさん!」って言った時点で、誰にも言ってない事と同じになってしまいます。
学生時代、何か苦しい感じがしたのは、自分の想いや感覚を言語化出来なかった事に起因しています。
だからこそ、中学生の頃に、それを見事に言語化していたBUMP OF CHICKENの藤原基央(敬称略)に惹かれ、憧れを抱いたのでしょう。
上記のくるりとハンバートハンバートの曲も、自分を重ねてしまう仕掛けがあるから、知ってる感情が動く。
人の感情が動く文章を、僕は綴りたい。
文章は一枚の絵画なのかもしれない
言葉から言葉へ。
自分が持ち合わせている語彙の中から、意味が繋がる方へと、次の相応しい言葉を手探りで探し当てる。
それを繰り返す事で、単語を数珠繋ぎにしてゆく。これが、形成される文章のプロセス。
この、言葉と言葉の関係性を、どう捉えるかが、当人の目線そのものであり、独自性ともなるのでしょう。
出来事や有様。事実をどう形容するのか。
言葉の選定力が、その人の描写力となります。
つまりそれが、フィルターとしての価値となる。
言葉でイメージを浮かばせるっていう点に於いて、文章も一枚の【絵】なんだと思う方が、個人的には自然です。
その点で言うと、語彙は、絵の具の数に等しい。
語彙が少ないと、考える時にもどかしい思いをする事になるんですよ。
手が届かない。もとい、言葉が届かない。
玩具的な言葉の比重が大きい、唄ものの歌詞なんかだと、音楽だけでも完結出来るから、万人に伝わるようにっていうよりかは、抽象度の高い言い回しでもいい。
でもこういうブログって、誰にでも伝わる汎用性が要る。
伝わらない文章に、価値は無い。
目的は、イメージを【橋渡し】する事。
伝言ゲームがゆがんで行くのは、それぞれに認識や解釈の違いがあるからですよね。
このイメージを、なるべく誰もが同じように浮かべられるよう、共有する為に必要となる技術が、論理です。
1+1は、基本的には誰にとっても2です。
それが論理的な手続きな訳です。
勿論、解像度を敢えて滲ませる事で、それぞれの受け手が持っている体験に、可変するような抽象的な着地のさせ方も美しい。
つまり、論理性は、写実的に景色を描くための、【パース】なんでないかと考えています。
パースっていうのは、例えば、一点透視図法・二点透視図法・三点透視図法のようなもの。
これに沿って線を引く事で、2次元空間に、立体的な3次元空間を演出できる。
それを一枚一枚、手渡してゆく事が、僕の考える文章。
一朝一夕では作れない【状態】の備忘録
ブログって、記憶を外部化できるんですよね。
つまり、脳を拡張する装置でもあると、認識しています。
逆に言えば、ブログを続けているのは、自分の記憶を信用していないからって事なんです。
参照記事:【状態ですら作品だ】習慣化する事であなたの実感は鮮明に立ち上がる
【状態の備忘録】を言語化して、残しておきたいのです。
何故なら【状態ですら作品】であると、僕は考えているからです。
例えば、中学高校時代、部活動に明け暮れていたとします。
ピンポンのオババも言ってましたが、アスリートは3日サボると状態を戻すのに、1週間掛かるんですよ。
それくらい、【状態】ってのは簡単に作れないんです。
つまり、スポーツに人生を完全コミットして居る状態を保てなければ、もう簡単には戻れません。
絵だって、描き続けなければ下手になります。
音楽も然り。
なんらかの形で残っていなければ、当時の【状態】は無かった事にされてしまいます。
以上の事から改めて言えるのは、【状態】は生々しい【作品】だって事なんです。
大森靖子(継承略)が、マジックミラーという曲中で、こんな事を言ってます。
あたしのゆめは
君が蹴散らした ブサイクでボロボロのLIFEを
掻き集めて 大きな鏡をつくること
君がつくった 美しい日々を
歌いたい
出典:マジックミラー/大森靖子
つまり、どんな日々も、作品になり得るって事です。
未来の自分からすれば、今の自分の状態ってのは、欲しがっても、もう手に入らないものだったりするんですよ。
今は当たり前のように目の前に有るけど、それが無い時期もあったし、生きてれば必ず、未来に【喪失】が待ってます。
何かとのトレードオフによって、立ってる場所があるんですよね。
何かを選ばなかった事で、引き換えに選んだ今を生きてる。
描写が、詳細なものであればある程、当時の感覚が生々しく立ち上がる、記憶のトリガーになり得る。
どんなに、くだらない事でも、未来の自分からしたら、光り輝く事実にだってなると考えています。
これは別に、懐古主義になったらいいって話とは違います。昔話のジジイになってはいけませんよね。
それはめちゃくちゃダサいです。
ノスタルジーとはまた、ちょっと違うんですね。
その時の自分の、目線の保存って感じです。
ブログは脳を拡張する装置
日常生活で何気無く思った事や、気付いた事に対して
「これってもしかしたら、こうなんじゃないか?」
そんな仮説を、幾つも刻んでおく事。
そんな風に、切り口を集めていけたら、心中とても愉快でしょう。
その調子で、思考のモジュールが分岐していけば、「じゃあこの場合は…」等々、色々楽しいですよね。
仮に記憶喪失になっても、明日死んでも、【みきお】と云う人間の記憶の、バックアップとして形が残るし。
記憶喪失にならなくても、死ななくても、最早他人である未来の自分に、或いは自分以外の誰かに、自分の手掛かりを用意しておける訳ですから。
まるで、宇宙人が解読する日を待ち続けて宇宙を漂う、Voyagerのゴールデンレコードのように。
残して、報せるって、なんかロマンですね。