自分の言う事は全部100%間違っている
科学の発展に伴い、色んな事が明らかになっています。
その科学でさえ、未だによく解ってない事ってのが、沢山あるんですよね。
なんにも解んないんですよ。
それなのに、どうして自分の言ってる事が正しいと思えるんでしょうか?
根拠の無い自信なんて、もうとっくに、道端で車に撥ねられて、一瞬でぐしゃぐしゃになって、丸め込まれて、その辺に捨てられて、蹴飛ばされて、横たわってます。
現時点で、人類の誰にも気付かれていないような発見(解明)に手を伸ばす、博識な科学者でさえも、
「いや、これはどうやら違うぞ」
なんて、思考を揺さぶりながら、自分の研究を否定しながら、有力な仮説に書き換えて進んで行きます。(こういうのを可繆主義と呼ぶ)
なら尚更、こんな一般ピーポーの僕が言う事なんて、100%間違ってるに決まってるんですよ。
それを前提に、こんな場所で何かを物申してる訳です。
誰も正しくはないし誰も間違ってはいない
心がどうしようもないとき あなたの心が壊れてしまいそうなとき
音楽は流れているかい? そのとき音楽は流れているかい?
ひとりぼっちにはなれやしない だからといって強くも優しくもなれそうもない
だれも正しくはない だれも間違っていない
出典:満員電車は走る
曽我部恵一BAND/曽我部恵一
誰も正しくなんかないんです。でも、間違ってもいないんですよ。
曽我部さんが言ってるこのフレーズってのが、【満員電車は走る】を聴いた日から、ずっと心に残っています。
極端な解釈をしがちだった、学生の頃の自分は、そんな感覚を抱いていました。
でもそれは違いますね。
良いとか悪いとか、正しいだとか間違いだとか。
それ以前に、差し出さなければ、インタラクションは始まらないし。
インタラクションが始まらないと、自分と、それ以外の関係性との距離を測れないですよね。
アクション(原因)によって、跳ね返ってきたリアクション(結果)を手にしないと、人は成長出来ないんですよ。
つまり、間違ってるって事にも気付けないって事です。
だから、間違っててもいいんです。
もし間違ってるのであれば、適宜修正して、更新していけばいいだけの話ですからね。
リライト、リブート、オーバーライドを繰り返して、その精度を高めるだけ。
人を成長させるのは、フィードバックです。
何かを知る事は、自分を知る事は、【そうかもしれない】と思った事を集める事なのです。
こじつけかもしれないけれど、可能性を秘めている、【そうかもしれない】っていう部品。
コレを育んで、捨てないで、忘れないで、持ち続ける事が、いつか自分を知る為の手掛かりになってくれます。
以上の態度が、言及した事の100%が間違っている僕と、あなたが取るべき正しい姿なのでは?
間違ってる事を修正出来るメタ認知
【メタ認知】とは
《metaは、より高次の、の意》認知心理学の用語。
自分の行動・考え方・性格などを別の立場から見て認識する活動をいう。
その昔、数学的に証明された事に関しては、もう議論の余地は無く、絶対的な正しさこそが数学的証明であり、真理である。とされていました。
しかしながら、1930年頃に、ゲーデルという数学者の不完全性定理によって「数学理論は不完全であり決して完全ではなりえない事」を数学的に証明してしまいました。
つまり、絶対的な論理なんてものは、無いって事です。
そこを前提に、自覚的に論理を扱いたいのです。
此処でのポイントは、自分の固定された思考を、俯瞰で監視する余白を持っておくって事です。
頭が柔らかい人ってのは、そんな余白を持った人だと思います。
換言すると、余裕を持った人の事です。
ソクラテスの【無知の知】みたいなものです。
どこまでも冷静に、一歩引いて眺める事に対して、自覚的である。という状態です。
ロストマンに学ぶ【正しさへの祈り】
間違った旅路の果てに 正しさを祈りながら
出典:ロストマン
BUMP OF CHICKEN/藤原基央
ライフステージの節目節目で、吸い込まれるように聴いてしまうのがこの曲、ロストマン。
自分の選んだ未来が、果たして本当に正しかったのか?これで良かったのか?
解らないけど、出来る事は自分が選んだ事を受け入れる事だけ。
答え合わせの出来ない自分なりの答えを、自分自身で選び取って、大切に信じるしかない。
仮にそれが、一般的には間違っていたとしても、です。
逆に言えば、大切に出来るくらい、手を尽くす事が出来なければ、それが自分にとって正しかろうが、その答えは容易く潰されてしまうでしょう。
それは、【時間】や【他人】であり。
そこに生じる【感情】、或いは【正しいもの】や【綺麗なもの】等々に、それはもう簡単に潰されます。
正解面した主観が肩をぶつけてくる世界
自分の答えを導き出す為に、必要な知識を掻き集めて、手掛かりを増やしてゆく事。
暫定で、最善の方法に、更新し続ける態度を取る事。
そうやって、今は解らなくても【問いへの緊張を緩めない】姿勢が、答えに辿り着く為の唯一の方法なのではないでしょうか。
繰り返しますが、自分の言う事は100%間違っています。
但し、自分がそれを信じるのか、信じないのかは、また別の話。
様々な主観が、正解面して肩をぶつけてくる世界です。
しかしながら存在している時点で、軋轢の無い生き方なんて出来る訳が無い。
結局のところ、自分の美学を信じるしか、目の前を突破する方法が無いんですよ。
アート寄りの発想になりますが、自分が美しいと感じるもの以外、全部ゴミでしかない筈なんです。
主観の話ではね。
自分にとっての正しさを肯定する為には、それ以外の全てを否定する事になります。
何故なら、何かを選ぶって事は、それ以外を選ばないって事だからです。
何かを大切にするって事は、それ以外を大切にしないって事です。
そんな風に、間違ってるかも知れない自分の答えを、祈るように信じる事が出来なければ、突破出来ない局面もあるのではないでしょうか。
それが自分の軸を堅持すると云う事だし、自分の生き方を引き受けて責任を持つ。と云う事に直結するのです。
【頑固に堅持】しながら【素直に柔軟】にって矛盾と行く
【自分の言う事は100%間違っている】
それを前提に、自分を信じる。
これを一つ、前提として念頭に置く事が、余裕のある大人の男に近付く為には、必要な要素の一つであると仮定しています。