ルサンチマンって誰だよ!?
ルサンチマンってご存知でしょうか?
「知るか」って思ったあなたも、実は、その身に覚えのない概念を抱いている可能性が無いとは言えません。
何故なら、ルサンチマンってのは、理想と現実とのギャップに生じるものだからです。
ウルトラマンとか、スーパーマンとか、そういうヒーロー的なものではありません。
あぁなりたいとか、こうなりたいとか、生きていれば少なからず、何らかの憧れや願望が生じる事かと思います。
或いは、早く此処から出たい。みたいな、痛みから生じる欲求もそうです。
でも、それが叶わないんです。
突き抜ける事もできず、逃げる事もできない。
ドイツの哲学者ニーチェは、この時の無力感に伴う感情を、ルサンチマンと呼んだんですよ。
恨みとか、嫉妬とかって訳されていますが、ツァラトゥストラでは【無力からする歯ぎしり】と表現されています。
不倫願望とルサンチマン
ルサンチマンってのは何か?という疑問を、みんなの大好きな不倫の話に置き換えてみます。
例えば、「不倫は悪だ!」と、そう言っている自分を誇らしく思っている人が居たとします。
でもこの人は、不倫がしたくてしょうがないんですよ。でも何らかの理由で、できない。
かと言って、不倫もできない程に、自分の人間的魅力が低いって事を見ようともしない。
だから、やっぱり「不倫は悪だ!」みたいな風潮に乗っかる訳です。
自分の叶えられない願望を正当化する為に、自分の欲望を隠して、都合のいいように解釈を歪める。
不倫ができるような実力も無いって事から、目を背けてしまうのです。
不倫の話題が好きな人は、不倫がしたい人なんですよ。
【昼顔】を夢中で見ていた人は、不倫したいんですよ。
どうでもいいんですけど、その当時、周囲の人に斎藤工に似てるって割と言われた事があって、そう言ってきた昼顔にどハマりしてた人、離婚して結婚しましたからね。
これ多分、誰にでも該当するんじゃないかと思います。
いや、不倫の方じゃ無くて、この【したいけど、できないから、したくない】みたいな文脈の話。
端的に言えば、強がってる訳ですね。
僕にだって勿論、ルサンチマン的な内圧はあります。
【ツァラトゥストラ】はキリスト教が流布する価値観へのカウンター
そもそもツァラトゥストラってのは、キリストの聖書に対するカウンターとして、リリースされた書物だったんですよね。
しかも、ニーチェの両親は牧師です。従って、キリスト教の信者でした。
その点、キリスト教の事をよく知っていたからこそ、より不信な点が見えていた部分もあったんじゃないかなと思います。
ニーチェが生きていた時代背景では、世界は神の創造物だと一般的に信じられていました。
ただ、絶対的な価値観として君臨していたキリスト教に対して、「あれ?なんか違くね?」って事に、薄々気付き始める人がチラホラ出てきて時代でもあったんですね。
例えば、科学の発展に伴って、ダーウィンの進化論が出てきたり、一方、カトリックVSプロテスタントみたいな内部抗争。
或いは、免罪符を売り初めちゃって、教会の腐敗が進んでいたりと、教会の権威性が弱まってはいたんですよ。
そこに、「神は死んだ」とかセンセーショナルな事を言い出す人物。
これは、現代で考えると逆ですね。
「我々の宗教を信じましょう」とか言われたら、「コイツやばいぞ…!」ってなりますもんね。
でも中世ヨーロッパでは、そっちが常識だった訳です。
ニーチェの根底には弱肉強食的な思想がある
善と悪っていう価値観の背景には、ルサンチマンが潜んでいるとニーチェは言います。
弱者は天国へ行き、強者は地獄に堕ちるっていう価値観は、本来の自然な価値観では無い。
キリスト教では、弱者こそが善人であり、金持ちのような社会的な強者を悪人と見做し、空想の世界で「あの人は地獄に落ちますねー」みたいな感じで、精神的に優位に立とうとするようなイメージ。
つまり、キリスト教は、社会的弱者の幻想であるルサンチマンによって、架空の神が作り出されたとニーチェは考えていました。
【右の頬を殴られたら、左の頬を差し出しましょう】とか、確かに普通じゃ無いですもんね。
半沢直樹に言わせれば、「倍返しだ!!!」って話ですよ。
このように、弱肉強食の思想が、ニーチェの根底にはあります。
これは、自然本来の価値観とも言えます。
るろうに剣心で言うところの、志々雄真実のような立ち位置です。
ただ人によって、ニーチェの思想ってのは、疲れてしまうのかも知れませんね。
「他人に勝たなければならない」って言ってる訳ですから。
アイシールド21の37巻に答えはある
比較対象探しの毎日 知り合っても知らなくても
知識 苦労 資格 今あいつは 人としてどんな具合
心は健やかに いつでも穏やかに
何も気にしないような顔して 棚に上げたまま止めない
出典:good friends
BUMP OF CHICKEN/藤原基央
ルサンチマンってのは、他人を否定する事で、自分を肯定するっていうメカニズムになっています。
でもそれだと結局、物差しが外側にあるまんまなんですよ。
比較の発想にある限り、そこからは抜けられない。
じゃあどうすんの?って話ですけど、答えはアイシールド21の37巻にあると考えています。
アイシールド21ってのは、ジャンプで連載されていたアメフト漫画で、37巻は最終巻です。
ホントにクライマックスの部分です。
出典:アイシールド21/37巻
才能の塊のような男、阿含に【たられば】の話をされた時に、ヒル魔っていう、身体能力は凡人だけど、頭のキレる司令塔が言うんですよ。
「ないもんねだりしてる暇はねぇ」と、「あるもんで最強の戦い方探ってくんだよ」と。
このセリフは、記憶に強烈なインパクトを残していますね。
あれが無いから、これが無いから。
社会が悪いとか、親が悪いとか、顔が悪いとか、体型が悪いとか、金が無いとか、他人の所為にしてる暇があったら、配られたカードでどう戦うかって事を考えるんだって話ですよね。
自分で自分を肯定する物差しを、自分の内側に設定するんですよ。
このクソくだらない世界で 躁鬱病になったって
会社クビになったって アル中になったって
君に見捨てられたって 宗教にはいったって
借金抱えたって ハゲたって 生きていくんだ
出典:TOP OF THE FUCK’N WORLD
The Mirraz/畠山承平