子供に対する褒め言葉「えらい」の謎
「偉いねー」
子供を褒める時、何故かこの言葉が浮かんでしまう。
無意識に、この言葉を発してしまった直後に必ず、「?」「偉いってなんなんだよ!」と云う違和感と疑問が走る。
そして、こんな思考停止のテンプレみたいな言葉しか子供に向けられないなんて、クソだな俺は!と、もやもやする。
この際ハッキリさせたいので、子供への褒め言葉”えらい”について考えてみます。
えら・い【偉い/▽豪い】とは
1 普通よりもすぐれているさま。
㋐社会的地位や身分などが高い。「会社の―・い人」
㋑人間として、りっぱですぐれている。「苦労しただけあって、―・い人だ」
2 物事の状態が普通ではないさま。
㋐程度がはなはだしい。ひどい。「今日は―・く寒い」「―・い混雑だった」
㋑予想外である。ひどく困ったさまである。「―・い目にあった」
㋒苦しい。つらい。しんどい。「歩きどおしでからだが―・い」
”偉い”は、概ね二つの意味を持ちます。
立派だと云うニュアンスと、甚だしいと云うニュアンスです。
そもそもどんな時に「えらい」を言いがちなのか
顧みると、自分の想定を子供が越えた時に、思わずこの言葉を使ってしまう傾向にあります。
例えば、風呂上がりの着替え。
大抵こっちで促さないと、暫くの間、全裸のまま布団の上でもぞもぞやってます。
「はい、やるよ」って、何回言ってもシカトです。
「じゃあ自分で着替えてね」って言って、ほっとくと、その内「みきおさん!やってよー!」とグズり出す。
しかし、ごくたまに、率先して能動的にパジャマを着る時があるんですよ。
そんな時に思わず「お、えらいね!」と言ってしまうのです。
普段出来ない事(やる気の無い事)が出来た時、自発的に何かが出来た時に、この言葉を使ってしまう。
だとするとですよ。
自分の扱う「偉いね」と云う言葉。
これは立派だと云う意味よりも、甚だしい。予想外だ。と云う意味の比重が大きかった事に、今気付いて、びっくりしてます。
つまりそれって、褒めてるようで褒めてないって事です。
何故ならそれは、自分の感情に対するリアクションであって、子供の行動に対するリアクションでは無いからです。なんてこった。
子供は褒めるべきでない?
中部大学教授の武田邦彦(敬称略)はこう言及しています。
心理学の慎重な研究を見ると、子どもを含めた人間が「やる気」になるのは「プレゼント」では無く、その人の心の中の「自己実現」であるとされていて、その結果はかなりくり返し証明されています。
「人間はやる気満々で生まれてくる」と言われますが、まさにその通りで、赤ちゃんは「やる気満々」なのです。
やる気満々。
確かに、多動で、目に付くもの全てに手を伸ばし、それを口に運んだりと、止め処ない毎日です。
ところが少しずつ物心がついてくると、大人が「これをやれ、あれをやれ」と指示してきます。
「指示をする」と言うだけなら、自己実現の意欲をそぐことにはならないのですが、親が「これをやりなさい」と言ったことをすると、困ることに「褒めてくれる」のです。
でも子どもは「褒められるためにやっている」のではありません。
あくまで人間としての自分の自己実現のためにやっただけのことです。
そう考えると、大人を困らせるような普段の行動は自然な事だし、それを止めようとする事自体、ナンセンスな事ですよね。
「座って食べなさい」とか「零さないようにね」とか、そんなのは大人の都合でしかない訳です。
じゃあ、全部好きにさせてあげた方がいいのか?っていうと、それはまた違いますよね。
子供が自分の感情、衝動に対して従順である限り、大人がブレーキにならなければならない場面てのが、いっぱいあると思います。
IメッセージとYOUメッセージ
ここで参照したいのが、臨床心理学博士であるトマス・ゴードンが、著書”親業“で提唱しているIメッセージとYOUメッセージです。
参照記事:【親業に学ぶ】子供がギャン泣き時に必要としているのは【共感】だった
これって、コミュニケーションをベースにしている場面では、結構色んな所で言われてますね。
IメッセージとYOUメッセージは文字通り、主語を自分にするのか、相手にするのかの違いです。
YOUメッセージは正に、上記の「(あなたは)座って食べなさい」とか「(あなたは)零さないようにね」とかです。
そうすると、子供にとって親は上のイラストように、秩序おじさんみたいになります。
これだと、命令的で非共感的です。
しかし、「座って食べてくれると私はうれしい」「零さないようしてくれると私は助かる」のように、主語を挟む事で、命令口調にはならず、相手を責める事にもならない。縦じゃなくて、横の関係になるって事です。
何故なら、単に自分の気持ちを述べているだけだから。
Iメッセージは、要望を伝える事をしながらも、共感的な態度を取る事が出来る訳です。
実際、これを取り入れたところで、簡単に上手くはいかないんですけどね。
ただ、直接役に立たなかったとしても、知っておく価値はあるかと思います。
プレゼントは子供の意欲を削ぐ
上記の武田邦彦(敬称略)の言及には、続きがあります。
子どもが難しい問題に取り組んだとき、子どもの意欲をかき立てるのは次のうち、どれでしょうか?
1)「素晴らしい!」と褒めて、欲しがっていた物を買ってあげた。
2)「素晴らしい!」と褒めて、頭をなでた。
3)「へー、できたの?」と言ってにこっと笑う.
4)何にも言わない。
5)「そんなのできないの?」と皮肉を言う。
6)「ダメじゃ無いの!」と怒る。心理学では3)(「へー、できたの?」とニコッと笑う)ぐらいが最も良いと考えられます。
1)では子どもは「せっかく自己実現しようとしているのに、それが物に変わってしまった」と思いますし、
もちろん6)では「自分の自己実現のためにやっているのに、できないことが誰かに関係するの?」という事になるからです。
人間は「やる気満々で生まれる」ということは、「やる気はプレゼントと関係なく存在し、プレゼントをもらうより強い」ということであり、「プレゼントをもらうと、自己実現の意欲より物欲というより低い意欲に転換する」からです。
自己実現は物をもらうためでも無く、他人から褒められるためでもなく、自分自身のために自分がやるという人間の最も大切な心に根ざしているからです。
他人(親)がどうこう言うんでなく、子供の自己実現に対して、共感の態度を取るって事が子供の成長を支える方法なんだなと、思います。
厳しく育て、常に共感する・・・これが教育の王道であることは、多くの先人たち、先端の教育学で認められていることで、なにも特別なことではない。
子育ての本質は、共感って事ですね。
そもそも、褒めるって考え自体が駄目なんでしょうね。
例えば、風呂に入りたくないと主張する子供に対して。
寝る前に風呂に入ってくれると、私は嬉しい。
風呂に入らなかった場合、あなたに汗疹(あせも)が出来る可能性が高まる。
あなたが、かゆい思いをすると私は哀しい。
実際、そんな想いを抱いてる事は事実なのに、「はい、風呂入るよ!」と言葉足らずに急かしてしまう。
人間、疲れてくると雑になるし、一つ一つ丁寧に。という心掛けが抜け落ちるんですよね。
そして、楽な方を選ぶ度に、身体の芯まで雑になる。
だからこそ、それを丁寧に伝えられる事は、お互いの心の豊かさにとって必要な事。それが所謂、真心ってヤツなのかも知れない。
蛇足
因みに、知り合いの看護師が言っていたんですが、静岡弁で“えらい“は、“苦しい“と云う意味らしいです。
だからつい、患者に「えらくないですか?」と聞いてしまう事があって、勿論、通じないと言っていました。
その人は、最初の印象がワンピースのサウロみたいな喋り方をする人だなーと思っていて、その語尾の「だでねー」って方言なのか、聞いてみたら静岡弁でした。