キレた時に黙ってしまう原因は怒りの感情と言葉が共存できないから

2020年5月21日考察してみた

激おこぷんぷん丸

おはようございます。

激おこぷんぷん丸のmikioです。どうも。

早速ですが、【怒りのメカニズム】について軽く音声を録っています。

よかったら聞いてみてね。(息子の声が入ってしまった)

 

さて、僕らに備わっている、【怒り】という感情。

基本、ネガティブなものとして嫌煙されがちな感情ですが、人類の歴史を紐解いていくと、めちゃくちゃ必要な脳のシステムです。

例えば、くまのプーさんが「はちみつを食べたいんだなぁ」とか言いながら、ハチの巣を刺激したら、ハチに追いかけられますよね。

あれは、ハチからしたら、怒らなきゃいけない場面だからですよ。

なんかよくわからん黄色いヤツが、自分達の生活に危害を加えようとしてるわけですから。

そりゃあ、ハチもブンブンするでしょう。

同様に人間だって、自分を不当に扱ってくる相手に対して、怒ることができなかったら、「どうぞカツアゲしてください」って、言ってるようなもんじゃないですか。

いい人でいようとすると、そこに目をつけたヤツらに、ただカモにされるだけっていう現実があるんです。

つまり、怒りの感情には、僕らの心身を守る為の自衛隊という役割があるのです。

怒れない人は「怒り方がわからない」っていう苦しさがある

とは言え、怒らなきゃいけない場面でも、怒れない人ってのもいると思います。

怒れない人ってのは、心理的には2パターンあるように思います。

  • 怒りたくない人(喧嘩になりたくない)
  • 怒り方がわからない人

というか、怒るべき時にうまく怒れない時って、両方に該当する人の方が多いのかも。

僕もそうです。

感情的になると、言葉が出なくて、黙ってしまうのです。

これって、脳の構造としては普通の反応なんだと思います。

っていうのも、思考感情って、脳的には同居できないんですよ。

ハンバートハンバートの【ぼくのお日さま】っていう曲があるんですが、この曲に、過去の痛みを重ねてしまう人は、きっと上手く怒れない側の人なんじゃないでしょうか。

そういう意味では、怒り下手な人にとってのリトマス紙的な曲になっていますね。

怒ってる時に論理的に言葉が出てくる人は実際には怒ってない説

上記のように、怒ってる時に論理的なことを言える人は【感情的には怒ってないってのが、僕の仮説です。

つまり、怒ってるっていう体裁を、戦略的に使っている。という事になります。

或いは、怒るっていう状態に、慣れきってる人も、言葉が出やすいのかなと。

普段から悪口ばっかり言ってる人って、悪口を言う事に慣れていますよね。

例えば、ドラゴンボールZのセルゲーム編の時に、精神と時の部屋に入って、スーパーサイヤ人の状態に慣れる事に成功した、悟空と悟飯みたいなイメージです。

その時の悟空と悟飯は、スーパーサイヤ人になると興奮してしまうから、デフォルトでスーパーサイヤ人になっている時も、平常心を保てるように徹した訳です。

要は、筋トレのように怒る場数を踏む事で、結果的に怒る訓練を積んでたみたいなイメージ。悪い意味でね。

これに関しては、知性が求められると思っています。

っていうのも、日常的な怒りが習慣化している人は、その攻撃性を正しく使えば、自分も他人も守ることができます。

しかしながら、その怒り方に建設的な想いが無いと、ただ罵詈雑言を言うだけの人になってしまいますよね。

いずれにしろ、上記のような怒り方ってのは、怒りの背後にパーソナルな正義とか、利益といった、別の目的があります。

こういう怒りの使い方を、道具的攻撃と呼びます。

怒りには道具的攻撃と敵意的攻撃の違いがある

怒りに伴う攻撃ってのは、大きく2つに分類できます。

それが、道具的攻撃と、敵意的攻撃です。

道具的攻撃ってのは、攻撃を示唆する事で、何かを強制させたり、搾取しようとしたりっていう、手段としての攻撃の事です。

要するに、脅しとしての怒りです。

自分の目的を果たす為に、相手のコメカミに、怒りという名のピストルを突き付けてみる訳です。

怒る事自体が目的ではないってのが、道具的攻撃の特徴ですよね。

例えば、銀行強盗だったり、車の当たり屋の恐喝ってのは、金を奪う事が目的なので。

一方で、敵意的攻撃ってのは、特定の相手を傷つける事そのものが目的になっています。

仇討ちってのは、まさにそれですよね。

以下の記事でも述べているような、「愛ゆえに殺す」っていう憎しみの発現は、敵意的攻撃そのものです。

参照記事:ダークサイドに落ちる男のメカニズムを脳内物質を引用しながら科学的に解説してみる

感情を表に出すことに抵抗があるのはお国柄なのかもしれない

  • 空気を読む
  • 言語表現の多さ
  • ハイコンテクストなコミュニケーション

っていう、島国ならではの日本的な特徴に関しては、ずっと興味があります。

したがって、今も研究中です。

そういった、文化的な背景が、現代日本人の感情表現に響いているのかはよくわかりませんが、一因として視野に入れておきたいところです。

では最後に、武士道の本にある一節を引用して終わります。

「忍耐」の精神によって音を上げずに耐えることを叩き込み、他方では「礼」の教えによって、自分の悲しみや苦しみを表に出して他人の喜びや平穏を奪うなと求める。

このふたつがあいまって、自分の感情を表に出さない精神が養われ、ついには一見ストイシズム――外面的な禁欲主義――のように見える国民気質が形成された。

今「一見ストイシズムのように見える」と言ったが、それは真のストイシズムは国民全体を特徴づける気質にはなりえないと考えるからであり、そしてまた、日本人の態度や習慣の中には、他の国の人にとって「一見」冷淡に見えるものがあるようだからである。

しかし実際は、日本人も、同じ空のもとに住む他のどんな民族にも負けないくらい、感じやすく優しい気持ちの持ち主なのである。

それどころか、日本人は他の民族よりも、2倍も3倍も感受性が高いはずだと私は思う。

というのは、自然な感情が表に出ないように抑えるのは苦痛を伴うからである。

涙を流したり、声をたてたり、ともかく感情を外に出すのを禁じられて育った少年少女を想像してみてほしい。

医学的な見地から見たとき、そんなふうにして育った少年少女の心は鋼のように強くなるのだろうか、あるいは逆に感じやすくなるのだろうか。

さむらいにとって、感情を顔に出すのは男らしくないことだと考えられていた。

「喜怒哀楽を表に出さない人」というのは、優れた人格者をほめる決まり文句であった。

愛情という、人にとって最も自然な感情すらも抑えるのが当たり前であった。

出典:出典:武士道/新渡戸稲造/Kindle位置: 2,430

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mikio
以上、mikioでした。ありがとうございました。
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