「特別だった」と感じる未来から見える【2度と無い】当然の連続
何気ない日常の中で「あ、この感じって。今、素敵な時間なんじゃあないか」
或いは、世間一般で「幸せ」だと定義されている景色なんじゃないか。
そんな風に突然、気付くように、感じる時があって。
得てしてそういう時は、メタ認知が無意識に機能している。
例えば、いつものように子供を寝かしつけている時。
小さい体や、目を閉じて寝ようとしている顔を見ながら、突然、どうしようもなく愛おしくなる瞬間に出くわした事が、何度かあります。
それは別に、普段は子供が憎いからとか、そういう事じゃなくて。
自分のバイオリズムとか、家庭の状況とか、子供の健康状態とか。
自分を取り巻く状況が上手く噛み合っていない時は、余裕が無いんですよね。
そして余裕が無いと、そんな風に感じている暇も無い。
そんな風に、感じる事をしないままでいると、どんどん当たり前と云うフィルターにそれを隠されてゆく。
つまり、メタ認知が機能している時は、それらが上手く噛み合っている状態って事です。
そこから生じる余裕が、小さな感動を自覚的に認知させてくれると云う事ですよね。
科学的に言えば、脳内物質のセロトニンが放出されている状態になる。
その時の記憶を辿ってみると、その何時間か前に、娘が大人になった時。息子が大人になった時。
「一体どんな感じなんだろう?」なんて、何気無く想像していた事が、その【突然】に関わっていたりする訳です。
今の視座から見た未来。未来の視座から見た今。
このプロセスを、マルチアングルで巡らせた事で、未来の視座からの残像が、無意識に引っ掛かっていた。
今の視座から見た【今】に作用して来た。
故に突然、そんな風に思えたんだと気付きました。
「この頃は小さかったね」「可愛かったね」なんて言いながら。
ジジイになった自分が、過去の子供の写真や映像を見るみたいに。
今、目の前ですやすやと眠っている娘を眺めている。
すると、どうしようもない気持ちになる。
余談であり、僕の勝手な理想で妄想ですけど、娘がプリドーンみたいな女性になったら素敵だ。とか思ってます。
今以外の観点から今を見る事で発火するトリガー
主観が現在に固定されると、視界が当たり前の錯覚を纏うんです。
それはつまり、思い込みに運ばれた思考停止とも言えます。
僕らはいつのまにか 複製された永遠にいる
今日が終わると疑わない 明日が来ると疑わない喜べと言われ喜んで 悲しめと言われ悲しんで
天使の指かロイコトーム もう少しで終わるから耐えて出典:永遠の複製
THE NOVEMBERS/小林祐介
今までの感覚を辿ると、【もう2度と無いんだ】と思う観点と、【今幸せだ】と思う瞬間て、自分の中でリンクしている気がします。
同時にこの2つの感情が相まって、クロスオーバーして来る。
これが、上記の感情を引き起こすメカニズムになっているように思うのです。
例えば、自分が現在形成している「家族」と云う関係性が存在しない未来。
それも十分に有り得た話で、まぁこの先にだって、それが破綻する未来が一切無いとは言い切れませんが。
だから、そこに居ない、今とは違う未来を生きている自分が居たとしたら、それはどんな気分なんだろうかと。
そんな、反事実を考える事もあります。経済学で言うところの、機会費用のような。
そういったパラレルな可能性が、今此処に在る当然を、ぶっ壊すのです。
マルチアングルな詩とカットバックな間奏
BUMP OF CHICKENのフロントマン、藤原基央(敬称略)。
僕にとっては、中学時代からの憧れの存在であり、こんな人になりたいと背中を追いかけ続けた人物です。
今以外の位置から照射する目線によって、主観を揺さ振って来る歌詞。
受け手の目線を、過去や未来へ飛ばす詩を書く事に於いて、この人物の右に出る者は居ないと思っています。
例えば、今の嫁さんと出会ってから、今日までの間の記憶はお揃いです。
しかし、それ以前の嫁さんの事は知らない。
当時は嫁さんの事が好き過ぎて、それでも、出会う前の嫁さんに会ってみたい。
嫁さんの過去すらも自分のものにしたいと。思っていました。
だから娘と過ごしている今、時折それを取り戻しているような、補完しているような。
妙な錯覚を覚える事があります。
子供の頃の、嫁さんに会っているような。
そんな訳は無いんですけど。(流石に10年一緒に居るとそんな感情も薄れて来ます)
人は、取り戻せない過去と共に生きるしかないです。
そんな感情を、脳内で映像化させる仕掛けが内蔵されている唄が、宇宙飛行士への手紙なのです。
過去から今までに生きて来た時間。そこから未来までに生きるであろう時間に意識が飛んで、そして今に帰って来るような。
曲中の数分間、聴き手の目線を過去や未来に飛ばす訳です。
以下は僕の勝手なイメージ
そして、間奏部分が最も映像が見えるポイントなんですけれども。
信号のような音が、流星のように飛び交う事で、自分の記憶と共鳴して走馬灯のようなイメージを引き起こすんですよね。
そしていつか星になって また一人になるから
出典:宇宙飛行士への手紙
BUMPOFCHICKEN/藤原基央
この曲内で、最も重力を感じるフレーズがコレです。
厳然たる事実を明示しています。
大事な他人が居る程に、この曲は怖くて温かいものになるのではないでしょうか。
共感のメカニズム
選ばなかった未来。
そもそも存在すらしなかった選択肢。
知る筈の無かったパラレルな感情。
それらを解りやすく、追体験として体感、想像を触発する媒体が、映画であったり、漫画であったり、つまり物語の持つ特性なんだと感じています。
未だに確証は得られていないようですが、人にはミラーニューロンと云う神経細胞が存在すると考えられています。
ミラーニューロン(英: Mirror neuron)とは
霊長類などの高等動物の脳内で、自ら行動する時と、他の個体が行動するのを見ている状態の、両方で活動電位を発生させる神経細胞である。
他の個体の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように”鏡”のような反応をすることから名付けられた。
他人がしていることを見て、我がことのように感じる共感(エンパシー)能力を司っていると考えられている。
このようなニューロンは、マカクザルで直接観察され、ヒトやいくつかの鳥類においてその存在が信じられている。
ヒトにおいては、前運動野と下頭頂葉においてミラーニューロンと一致した脳の活動が観測されている。
物語に感情移入し、登場人物の感情。
換言すると、自分のものでは無い筈の喜怒哀楽を、自分のものとして取り出せるのは、このミラーニューロンに起因する能力なのでしょう。
そう考えると、この機能が高ければ高い程、人に優しい人物と言えるのかも知れないですね。
或いは、人の感情を巧妙に利用するような、狡猾な人物にもなれるのかも知れない。
それと、子供の成長スピードを鑑みると、子供は無条件にこの機能が高い気がします。
何故なら、子供は他者の挙動を模倣する事によって、自分の言語感覚や、フィジカルの解像度を高めるからです。
だとすると、例えば物真似が上手い人は、ミラーニューロンが秀でて機能している人なのだろうか?
黒子のバスケに登場する黄瀬涼太は、相当この神経細胞が高機能なのだろうな
(他人のプレイを一瞥しただけで、そっくりそのままコピーしてしまうキセキの世代の一人)
以上の事を踏まえると、優しい人と、物真似が上手い人に、相関関係があったりするのでしょうか。
追体験のどこでもドア
例えば、生きている事をより実感する瞬間てのは、死に直面した瞬間です。
死にかける時程、より生きている実感を捉える事が出来る。
何故、自分はこうして生きているのに、生きている事自体を、感じ難くなってしまうのでしょうか。
これにも、当たり前が関連して来ると考えています。
例えば現在、7月4日で梅雨も明けて、季節は真夏です。
朝から1日中冷房の効いた部屋に暫く居た場合、外気の気温の事は、暑いと云う認識はあったとしても、実感としては忘れてしまいます。
つまり、快適に慣れて、快適だとすら思わない状態。無。凪。
これが仮に、蒸し暑い外気の中で、汗塗れで動き回っていた人からすれば、冷房の効いた部屋に入った途端、涼しい。と感じる筈です。
この涼しいが、此処で言う生きている。と云う実感な訳です。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。と云う諺にあるように、人間の実感は、手を伸ばし続けない限りは、感覚的に残りません。
例えば、好きなバンドのライブを見て高揚する。感動する。泣いてしまう。
これはその瞬間だけの出来事であり、1年後にそれを思い出して、同じように高揚。感動。延いては泣いてしまう。なんて感情は引き出せません。
何故なら、記憶としては残っていても、実感としては残っていないからです。
登山家や、冒険家は、正にこの涼しいを感じていたい人達なんだと思います。
少しでも踏み外せば、死の世界に呑まれるような極限状態に、生きている体を置いてみる事で、自分の生の輪郭を実感するような。
だからこそ、危険であればある程に、彼らには手を伸ばす事が必然となる。
此処では、行き来するって事が、一つ、重要な精神過程なんだと思います。
意識の遷移。気持ちの往来。
行って終わるんでなく、必ず帰って来る事。
勿論、帰って来れないと意味無いですよ。
生への実感を得ようとして、死んでしまったら元も子もないですからね。
此処で生じる感情のジャンプ率によって、例えば以下のように心を往来させる。
- 現実⇄虚構
- 日常⇄非日常
- 具体⇄抽象
- 死にかける⇆生きている
そして、物語の大半がこのプロセスを辿っています。
物語は謂わばどこでもドアで、異世界への入り口であり、映画も漫画も音楽も、虚構と現実を行き交う事の出来る、感情の「どこでもドア」なのです。
「当然」が隠す特別
恒常的に馴染んでいる3歳の娘と、1歳の息子の、不思議な言い回しや行動が、いつか「特別だった」と思い知る未来から、今を眺めてみると、見逃せないし、可視化しておきたい。と云う願望に結び付きます。
一つもそれを忘れたくないから。
だから写真を撮りたくなる。エピソードを記録したくなる。
思い知っていたいんですよね、これがどれ程スウィートで、普通じゃない毎日であったかと。
そんな風に、定点観測のような感覚を、自覚的にドローンのレンズや、或いは人工衛星のレンズを通して、動的にモニタリングしてみる。
固定観念を取っ払って、きらきらひかれと云う曲を聴いてると、キラキラと光始める感情に包まれる。
何故なら、この瞬間はもう2度と無いから。
なくなるまでなくならない あたりまえなどひとつもない
はかなくてもつづいていく うつくしくありたいから
出典:きらきらひかれ
チャットモンチー/福岡晃子