センスを磨くべく【勉学】ではなく【感性】に逃げ込んだ者の末路
おはようございます。学生時代は、勉学よりも感性に生きてしまった男、mikio(@mikio_96 )です。
感性に生きたって何だよ?って感じですよね。
要するにですね、ちゃんと勉強しないで
- スポーツ
- 音楽(聴く・演る)
- 漫画(読む・描く)
みたいな事に、青春の全てをBetしちまったって事です。(後悔がある訳では無いです)
そんな男が痛感した、勉学の重要性。コレについて並べてみようってのが、今回の主旨です。
まぁ大人がよく、学生に言いますよね。「やっとかないと後悔するぞ」的な事。
それです。あのウザいやつ。
もっと勉強しておけばよかった。という、大人がよく経験する現象があるんですよ。
学生にはピンと来ない話です。
尊敬する大人が身近にいない限り、ムーディ勝山ばりに「右から左」なんじゃあないでしょうか。
ルフィとシャンクスみたいな関係性ならまだしも、よくわかんないそこら辺のおっさんに「お前の未来には、この勉強が必要になる」なんて、預言してくれても、信じて勉強なんて出来ないし。
興味を持つ。という状態をデザイン出来ない限り、先には進めませんね。
興味を持った時に勉強しないと、浸透しません。
いやでもね、必要なんですよ。特に歴史のリテラシー。
センスとは知識の集積である
今の時代、活字を追うっていう媒体自体、もう重たいですよね。
画像(Instagram)、動画(YouTube)の何が良いかって、集中力が要らないってところです。
つまり、思考停止でも入ってくる。意識は受け身でいい。
みんなイライラしてるんです。満員電車で窮屈な思いをしながら、行きたくもない憂鬱な職場に向かう訳です。
更に、膨大な情報によって、意志力を消耗している現代人にピッタリの媒体って訳です。
文章を読むってのは、言語の奥にある意味に手を伸ばすっていう、能動的な行為。
集中力が無いと成立しないんですよね。
だからこそ、逆説的に価値のある行為とも言えます。誰もやんないから。
【センスは知識からはじまる 】という本で、「センスとは知識の集積である」って言ったのは、クリエイティブディレクターの水野学(敬称略)です。
この本すごく面白いです。面白いからスラスラ読んでしまう。
センス=知識の文脈で言えば、「あの人センスあるわ〜」とか、「俺ってセンスないからさ〜」みたいな話って、「あの人知識あるわ〜」とか「俺って知識ないからさ〜」って言ってるのと大差無いって事ですよね。
じゃあ、知ればいいじゃんって事です。
この本を読んでからというもの、読書へのコミットに拍車が掛かりました。
勿論、スポーツの世界では、この理論は通用しないと思ってます。そこだけは、別世界なんですよ。
先天的なポテンシャルってのが、存在する世界だと感じます。年齢の影響も多分にある。
でも、スポーツ以外の世界なら関係ありません。知ればいい。それだけ。
【天才は歴史に従う】【凡才は天才に従う】そして【狂人はノイズに従う】
始めるのに遅いって事は無いけど、早ければ早いほど、教養は後の人生に影響を及ぼします。
レバレッジがかかるからです。
結局、突き抜けてる人ってのは、聡明です。そして、歴史を知ってます。
MO’SOME TONEBENDERの【Bad Summer Day Blues】って曲で
なぁ若いの 芸術家はいつだって冴えているワケじゃないぜ
感情を高ぶらせて ペン先から煙を出すためには それなりの覚悟ってヤツが必要だ
おいヒヨッコ オマエにいい事を教えてやる
天才は歴史に従う 凡才は天才に従う そして狂人はノイズに従う
出典:Bad Summer Day Blues
MO’SOME TONEBENDER/百々和宏
っていうフレーズがあるんですけど、正にこれなんですよね。
最近やっと、天才は歴史に従うっていうセンテンスの意味が、解るようになりました。
これを聴いていた当時は、凡才は天才に従うっていうセンテンスの方に、共感していました。
漫画の世界でも、音楽の世界でも、凄いなって人を追いかけてると、やっぱり知識のインフラが整ってます。
頭打ちになってしまう人ってのは、基礎が出来てないのに、応用の部分ばっかりに焦点を当ててしまうんですよ。(僕の事です)
例えば、前提知識が無いと読み難い本ってのがあります。
逆に言えば、前提知識があればこそ、スラスラ読めるんですよ。それだけで明らかに浸透率が違う。
基礎知識って、そういう事なんですよね。
知性のベースがあるからこそ、何かを始める上で、速度が出るんですよ。
そこで理解したのは、知らない=貧乏って事だったりします。
26歳まで小学5年生の自分を引き摺って来た結果
僕は学生時代、チコちゃんに100万回叱られても足りないくらいに、ぼーっと生きてました。
画用紙に、無軌道な絵を描き殴る子供ように、漫画を描いていました。いつも。
頭の中では常に、何か、人間的なシルエットが、勝手に飛んだり、跳ねたり、戦ったりしていました。
ただそれを眺めていたんです。
あれはなんだったんだろう?
大人と呼ばれるような年齢になる頃には、その謎のシルエットは消えていました。
まぁ兎にも角にも、26歳くらいまで、現実と乖離した空想の中に居たんですよ。
そんな、【26歳になっても中学生】みたいな脳内だった人間が、今では父親なんてやってるんだから、末恐ろしい。
先述したように、僕は勉学よりも感性に生きてしまった訳です。
【我が儘なスランバー】を捨てた後で拾ったもの
そうやって、感覚に生きれば生きる程、独りよがりになりがちです。
一部の天才を除いて、凡人がそんな事を続けていても、いつかは頭打ちなんですよね。
興味の無かった、現実の世界の事を知れば知るほど、何にもわかってないって事が、わかってくる。
乱読のセレンディピティっていう本の中で、こんな事が語られています。
戦前の青年は今よりも本を読んだが、あまり個性的ではなかった。そして常識的読書が多かった。
哲学的なものが高級だと信じ込んで、難解な翻訳に取り組んで意気がっていた。
わかりにくい翻訳書が、読みやすい啓蒙書以上に人気があったのは、よくわからないからである。面白くないからである。
翻訳者自身もはっきりわかっているかどうか疑わしい翻訳である。闇夜のコウモリを追うようなもので、音ほすれども姿は見えず。こういう本と格闘するの青春のぜいたくと虚栄である。
出典:乱読のセレンディピティ/外山滋比古/p24
青春の贅沢と虚栄って、言い得て妙ですよね。
モラトリアムな時代って、この熟語2つに集約されるよなーと、感心した次第です。
例えば、tacicaの猪狩翔一が綴る歌詞って、誰にでも、瞬時に、理解できるような言い回しではないです。
何処か謎めいている。
でも、何度も何度も聴いていると、何処かのタイミングで、自分の感情と重なる瞬間が訪れるんです。
だからね、心を引き千切った後に、タイムリーに飛び込んできた曲、tacicaの【HALO】を聴いた時は、涙が止まらなかった。今はもう、何も感じないけど。
抽象性の高い歌詞って、そういうメカニズムになってます。
で、そもそもの間違いだったのは、自分も受け手が歩み寄ってくれるような、意味を解読してくれるような作品を作りたいと思ってしまった事だったりします。
いや、それが悪い訳では無いんですけど、余程のカリスマ性というか、強い何かを持ってないと知りたいと思えるような引力って発生しないと思います。
僕はそういう感じでは無い。此処で綴る文章は、そうではいかんと、考えています。
伝わってなければ価値は無い。
テーマは没我です。
もし仮に、今のように家庭を持っていなかったとしたら、未だに、小学5年生の自分に手を伸ばそうと、時間と逆行するような生き方に、全力を尽くしていたでしょうね。
何をやっていたんだ今まで
当時は、小5の自分と心中するつもりで漫画描いてました。
彼の信じた未来を、生きなければならないと思い込んでいたんですよ。
でも僕は、彼をぶっ殺して、恋人と生きる事を選びました。そして子供を2人授かりました。
人生はトレードオフです。どちらを選んでも、選ばなかった方を失います。
自分の人生に、他人を巻き込んだ時。そこでやっと気付くんですよ、「あぁ、何も無いじゃん」と。
精神的な余裕も、時間的な余裕も、対価を得られる市場価値も、何も無いじゃん。
「何をやっていたんだ」と。
ひとりっきりで 言い訳並べて
ずっと黙っていた 都合のいいように
何をやっていたんだ 今まで
出典:何をやっていたんだ
KETTLES/コイケヤスオ

mikio
嘘の中から生じる本当の感情はノンフィクション
3.11の時も、ファミレスで漫画を描いていました。
あの頃の、世の中の空気に晒された時は、どうしようもない無力感に苛まれました。
なんの役にも、誰の役にも立たない事を、やって来たんだなって、その時は痛感しましたよ。
でもそれは結局、自信が無かったんでしょうね。
人は、自分が弱ってる時程、誰かの役に立とうとするもんです。
フィクションを見る行為も、作ろうとする行為も、生きる上で何の役にも立たなかった。
そんな風に思う事が、時々ありました。
それでも、少なくとも僕自身は、そこに価値を感じた訳です。
その気持ちを、信じればよかったんですよ。
何故なら僕は、フィクションの中に生じる、ノンフィクションな感情ってのが、あると思っているからです。
きっと、物語を紡ごうとする人達は皆、嘘の中にある本当を目指して、日夜作品に神経を注ぐんですよ。
最高にカッコイイと思います。
相互補完の関係との出会いが【バンド】みたいな集合体になる
自分の欠点を、補完し合えるような相棒に出会えれば、それで上手くいくんですよね。
長所と短所を、相互補完できる仲間に遭遇できれば、シナジーが起きます。
でもそれは、自分が差し出せるような、突き抜けた武器を持っている事が大前提です。
尚且つ、そこに光を見出してくれるような人が、自分を見付けてくれる事で、漸く成立するんです。
例えば、20代前半の頃の僕は、音楽の理論的な事は一切理解しようともせずに、ただ「楽しい」ってだけでギターを弾き続け、挙げ句の果てには、鼻歌をカセットテープに吹き込んで曲を作っていました。
何故だかわからないけど、バンドはやるだろうなと信じ切ってました。
で、不思議な事に、就職で横浜の街に来てから、偶然ドラマーの先輩と遭遇して、バンドをやる事になったんです。
その時の先輩が、僕の唄を、理論的にも、バンド的にも、補完してくれたんですよ。
そういう出会いがあったからこそ、僕の空想は、バンドサウンドになった。
自分で自分を補完しようとすると、結局ボヤッとしますからね。膨大な時間が掛かるし。
1人で、ギターやって、ベースやって、ドラムやってってなってたら、結局、中途半端に終わりますよね。
そういう意味では、本当は、漫画だけ描いてればよかったのかも知れませんが。
それだけの実力が無かったから、こんな有様なんですよ。
たとえばゆるい幸せが だらっと続いたとする
きっと悪い種が芽を出して もうさよならなんだ
出典:ソラニン
詩:浅野いにお/曲:ASIAN KUNG-FU GENERATION/後藤正文