【帰り道のカレーの匂いのような幸福】幸せを見付ける方法は2通りある

2019年3月8日心のデザイン

幸せ(ハピネス)

【幸福】って言葉は、【愛】に並んで、妙に胡散臭い気配を纏っている印象があります。

何故なんでしょうね。

誰もが、【なんとなく良いものだ】と云うコンセンサスが、何処かにあるからなんじゃないでしょうか。

だからそれを露骨に振り翳す人ってのは、その言葉の裏にある目的を果たす為の手段、対価を得る為の道具として、【なんかいい感じの言葉】を扱っているように見えるからなのかも知れない。

THE NOVEMBERSの小林祐介(敬称略)は言います。

愛は、何やら穏やかで温かで“善いものにしか”作用しないなんて考え方は
思考停止にも似た欺瞞であり、僕が軽蔑するひとつの物事でもあります。

様々なものが愛を巡ってうごめき、衝突し合い、混ざり合い、削り合い、すれ違ったり、高め合ったり、貶め合ったり、刺し合ったりする。

出典:THE NOVEMBERS/WEBLOG/小林祐介

いつだったか、職場で知り合いの女性が会話の流れで、「幸せになれるのかな」と不安がっていた人が居ました。

僕はその発言に、妙な違和感を覚えたのをよく憶えています。

人それぞれに幸福の定義は違うと思うので、そこで言う【幸せ】が、何を指すのかは推測するしかないのだけれど、僕にはその文脈から、何らかの条件を満たした状態の事を指していたように聞こえた。

つまり、彼女の場合それが、幸せ=結婚のようなニュアンスなんだろうなと。

例えば僕にも、ナッツが食べたいとか、コーラ飲みたいとか、トイレに行きたいとか、シャワー浴びたいとか、あの映画見たいとか、頻回に思います。

でも「幸せになりたい」だなんて思った事は無いんですよね。

何故ならそれって、目的と云うよりは、残った結果でしかないからです。

幸せの見付け方があるのだとしたらそれは2通りある

僕がこれまでで、「今幸せかも」と気付く時って、2通りのパターンがありました。

  • 余韻を感じる時
  • 当たり前に隠された特別を発見する時

後者は、この記事でも綴りました。

参照記事:人生は”2度と無い”と云う当然の連続だ

どちらにせよ、【ふと気付く】ところに、じんわりとした幸福感が宿るのです。

結果に対して、自分のメタ的な目線によって、発動する感覚なんですよね。

余韻を感じる時

幸せだと自覚的に感じられる状態ってのは、精神的な余裕の中にしか無いように思います。

思い出して、過去を感じる時。それは1秒前の事だし、10分前の事でもある。

或いは1日前か、1年前だとちょっと、実感が薄れますかね。

そしてそれは、感情の余韻なのだと考えます。

逆に言えば、何かに追われているような、圧迫されているような、キャパオーバーの状態。

そんな状態で、幸福感に直結している筈だった、全ての感情に気付く事はあり得ません。

その貴重な気分は、極度のストレスによって、ごっそり奪われるって事です。

僕の場合、子供が生まれてから1、2歳位になるまでは、子供を可愛いと感じる余裕すら無かったです。

だから、振り返ってみると、もっと余裕を生み出せる位の環境や、お金があればよかった。とか考えます。

自分の不甲斐なさの所為で、最も感動的な感情を受け取る筈だった時間を失ったからです。

真剣な態度で、或いは強制的に何かと対峙している時、何かを考えている余裕なんて持てないし、余韻に浸ってる暇なんて無いですからね。

多幸感ってのは、高揚とか、興奮とか、感情が爆発して、それがゆっくりと平常に戻っていく時の、ゆるやかな減速感に身を委ねている時に姿を現すもの。

ゆずの歌詞みたいに、「ゆっくりゆっくり下ってく」時に、感じるものです。

それが、僕の感じる幸福感の一つの側面です。

だから、それ自体を目指すのは漠然としているし、何処か倒錯している気がするのです。

行為に伴わない幸福が目的なら、じゃあ極論、麻薬でもやればいいじゃない。みたいな話になってしまうからです。

無理やりにでも、ドーパミン出せばいいじゃない。と。

その方が合理的でしょう。と。

身も蓋もロマンも無いです。

当たり前に隠された特別を発見する時

人は何かを買う時、行為の先に、心地良い状態の自分を見据えているものです。

所謂、ベネフィットですよね。

幸福感の感じ方は、当人の置かれる状況や状態によって可変しますよね。

例えば、冬の季節、寒過ぎて冷え切った体に対して、焚き火の火は温かいと感じます。

しかし、2018年の夏のような災害レベルの猛暑日に、焚き火に当たるような事をすれば当然、「んん暑いわ!!」ってなります。

勿論、サウナ感覚で「それが良いんじゃん!」と、マゾヒズム的に暑さを楽しめる人も、一定数居るとは思いますが。

距離を置くとその価値が解る事って無いですか?

幸福感って、捜し求めるようなものでは無く、そこら中に結果的に転がってるようなものです。

道端を歩いていたら、誰かの家の夕食のカレーの匂いが漂って来るみたいに、不意に感じ取るような感覚

それ程に、見慣れている景色に潜在していく、当たり前が隠している認識に対する発見のような。

当人にとって、必要で慣れ親しんだもの。

有ると思い込んでいるもの。だったりします。

例えば、外出先で財布を失くしたら落ち込みませんか。

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mikio

うわぁ、クレジットカードを止める連絡しなきゃならないじゃん……

なんて、そんな不安も瞬時に頭を過ぎりますよね。

でも、仮にそれを拾ってくれた人が居たら単純に嬉しいし、財布があった事に感謝しませんか?

これは、喪失感を知った(体感した)からこそ気付ける事ですよね。

逆に、そうでもして喪失体験をしてみないと、なかなか実感は出来ないものです。

失ってから知ると知っていたって結局は、実際失ってみないと解らない感情があります。

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mikio
以上、mikioでした。ありがとうございました。
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