忘れたい【非日常】と忘れたくない【日常】の狭間で移ろう心
mikio(@mikio_96 )です。 おはよございます。どうも。
突然ですが、此処で一つ問いを立てます。
ディズニーランドに行ってる時に、敢えて自分の寿命の事(死について)を考える人って、居るのでしょうか。
スプラッシュマウンテンに乗りながら、「自分はあと、何年生きられるのだろう」とか、そんな厭世的な事を考える人って居るでしょうか。(怖がりの人は考えるか?)
「ウェーイ!!」とか、「キャー!!」とか、はしゃぎながら、そんな事に思いを馳せている人って居るのでしょうか。
いや、居ませんよね。
というか、人間の構造上無理です。
例えば、人はスポーツをしてる最中に鬱になれません。
「楽しい!!」という体験を求めてこそ、千葉県の浦安市の舞浜という地に、足を踏み入れる訳ですよね。
つまり、「楽しい」事、それ以外を忘れる為に、人はディズニーランドに赴く。
と言っても、過言では無い。
人は忘れる事が出来るから楽しい日々を過ごせる
明日交通事故に遭って死ぬかもしれないのに、人は「キャー!」とか「わー!」とか、奇声を上げながらディズニーランドで楽しめる。
生き物は、いつか死ぬ。
誰もが、人間の致死率は100%だと知っている。
でも、それは明日ではない。
少なくとも、そう思ってるから毎日をのほほんと過ごすことができる。
THE NOVEMBERSの【永遠の複製】にあるように、【複製された永遠に居る】から。
以下の記事でも触れましたが
参照記事:「特別だった」と感じる未来から見える【2度と無い】当然の連続
終わらないと思い込んでる日常に居るから。
勿論、それでいいんですよ。
逆に、そんな事ばっかり考えていたら病的な気分になるし、苦しいし、誰も近付きたくなくなるようなオーラが出ますよね。
この発想を、スティーブジョブズみたいに
「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」
と、前のめりな問いに変えられたら、建設的な生き方にも繋げる事も可能です。
では仮に、明日死ぬ事が予め解っていたとしたら、同じように心から楽しめるのでしょうか?
自分の運命を受け入れた人は、それも可能なのかもしれません。
でも少なくとも、それを前提に、楽しもうと何処かへ赴く人も、楽しんでいる瞬間は【死】という事実を、思考の端に追いやっている筈。
つまり、忘れないと、楽しめない。
自分ではない誰かの怒りと哀しみの行方
怒りや哀しみを伴う事件や事故が、ニュースで流れて来たとき、なんらかの感情が走る事があります。
先日の、池袋の事故を知った時は、キツかった。
僕はお父さんと歳が同じで、且つ子供の年齢も近い。
もう自分と重ねずには居られなかった。彼の気持ちを想像しただけで涙が出た。
僕だったら、87歳のジジイをぶっ殺しに行くかもしれない。
自分じゃなかった。それだけの事なんですよ。
彼と僕を隔てているものは、運でしかない。
今思うと、恐らくこの時走った感情が、数日後に見た夢に反映されたんじゃないかと思います。
娘を事故で失うっていう、胸糞悪い夢を見た。
起きたら隣で、スースー寝息をたててたよ。良かった。
家族が無事で、一緒に居られる事が、如何に普通じゃない事か、確認した。
今日はみんなで出かける日だから、全力で楽しもう。
— みきお (@mikio_96) 2019年5月3日
人間は、自分を他人に投影しています。
相手の中に、自分を探します。
似ているだけで、近くに感じます。
例えば、ONE PIECEの話を引用すると、当時のオーナーゼフが船長を担っていたクック海賊団が、海難事故で幼いサンジと遭難した時、何も無い岩の島で、自分の足を食いました。
嘘をついて、全ての食料をサンジに渡す為です。
大人が子供を守ろうとするのは、生物としては普遍的な行為だと思います。(哺乳類は子殺しをするオスもいるので、人間は例外ですが)
でもそれに加えて、ゼフがサンジを助けようとしたのには、明確な理由があります。
オールブルーです。
つまり、サンジが自分と同じ夢を持っていたからです。
たったそれだけの事で、自分を犠牲に出来る人が居るって事です。
何故なら、ゼフがサンジの中に、自分を見つけたからです。
話を戻します。
当事者からすれば、一生忘れられないような怒りや哀しみも、傍観者からすれば、とんでもなく早いスピードで流れてく情報と共に、忘れられる。
この場合、反応した瞬間に抱いた感情は、ずっと持ち続ける事が正しいのでしょうか?
怒りとか、哀しい気持ちを、ずっと持ち続けなければいけないのでしょうか?
そうでなければ、忘れてしまうから?
礼儀が同調圧力に変異するような情報社会
東日本大震災の時の、マスコミが流す空気は異様でしたよね。
凡ゆるCMが、ACジャパンに差し替わりました。
粛々とした放送。周囲に漂う【不謹慎】という名の空気。【自粛】という単語。
近いような、遠いような場所で、苦痛を伴う事実を知った時、直接的な関係は無いにしても、その直後って、なんだか【楽しんではいけない】みたいな意識が生じませんか?
それが社会的に広がった時、同調圧力に変わるのだと考えています。
これって、日本的な感じ方の弊害とも言えます。
武士道の文脈で言えば、泣いてる人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶっていう、【礼】の範疇です。
参照記事:【武士道】2020年東京オリンピックに向けて日本人が知っておきたい大和魂の源流【ONE PIECEで解説】
武士道の第6章に、こんなエピソードがあります。
太陽の照りつける中、顔見知りの日除けのないところで婦人に声をかけましたと。
そこで、自分が差していた日傘を敢えて降ろして、炎天下の立つって話です。
「あなたは炎天下の下にいる。私はあなたに同情する。もし私の傘が大きければ、あるいはもっと親しい間柄なら、そうぞ私の傘に入ってもらいたい。しかし、それができないので、せめてあなたと苦痛を共にしているのです」
出典:武士道/新渡戸稲造
相手の不快を分かち合うことこそ礼儀であるっていう、一見優美な話なんですが。
これが、今の時代には削ぐわない側面を、持ち始めているとも思います。
視界に入ってくる情報が多すぎるのです。
忘れないように反復して刻み込む
一方で僕は、忘れたくないって思いながら、勉強しています。
依然、記憶力は悪いです。
だから、工夫しながら思い出そうとします。
参照記事:【物忘れ多い人必見】iPhoneアプリ【通知メモ2】を使って「あれ」を思い出そう!
このブログだってそうです。
僕がこうしてブログに何かを綴り続けるのは、忘れたいからです。
厳密に言うと、忘れてもいいような状態にしておきたいって事です。
僕は、自分の記憶を信用していません。
脳内のメモリーが、如何に曖昧なものであるかをよく知っているからです。
そして、その時にしか言えない言葉がある事も知っています。
何故なら、手応えとそれに伴う感覚は、更新し続けなければ忘れてしまうからです。
つまり、続けていなければ、幾らそれを知っていたとしても古くなるだけなんです。
この記事で記した、状態ですら当人の作品って話です。
参照記事:【状態ですら作品だ】習慣化する事であなたの実感は鮮明に立ち上がる
もし仮に、実感が残り続けるのだとしたら、それが異性であれ、子供であれ、好きな人をもう一度抱きしめたいとか思わないんじゃないでしょうか。
ずっと実感が残るなら、繰り返す必要って、なくなりますよね。
でも、肉体は有限ですよ。
それが【いつか】ってだけで、必ず喪失しますよ。
だから更新し続ける必要があります。何度だって、手を伸ばそうとする。
ギターだって、弾き続けなければ、そこで生まれる感覚は古くなるだけなんです。
人は忘れたい事と忘れたくない事を都合良く選んでる
忘れた方がいいって事があります。
例えば、あなたを苦しめる何か。あなたの尊厳を脅かす何かって、あると思うんですよ。
今でないなら、過去にはどうですか?
一つくらいあったんじゃないですか?
世の中には色んな人が居るから、殺意を抱く程に嫌いな人ってのが、1人や2人居ますよね?
胸糞悪い記憶が、プライベートの時間にまで脳内に侵食して来たり、イヤーワームみたいに、へばり付いて振り払えない声があったり。
そんな時、嫌な事、ムカついた事を、忘れたいって思いながら、なんとか遠ざけようとする筈です。
何かで気を紛らわせながら、明日を迎えるんです。
僕の場合は、【暴力性の強いもので掻き消そう】という心理が働きます。
頭がごちゃごちゃした時程
音楽の持つ暴力性に頼りたくなる
— みきお@半年で100冊読書挑戦中 (@mikio_96) 2019年4月16日
蚊に刺されたところに、爪でバッテン作りたくなるみたいなイメージです。
忘れる事が出来る人は、時間がゆっくりその痛みを緩和させてくれますよね。
トラウマ級の苦痛な出来事も、時間がその実感を薄めてくれる。
だから、忘れられないってのは、それはそれで苦痛なんですよね。
だから、忘却できる人間の脳は、自分の心を守る為の機能でもあると思います。
サヴァン症候群の人って、能力的には凄いけど、その反面メンタルやらますよね、きっと。忘れられないから。
その点、忘れる事が出来るって事は、当人が、どうしても忘れたくない事だって、だんだん忘れてしまう事は不可避な訳で。
例えば、恋人と過ごした実感も、時間がその感触をさらっていきますよね。
忘れたくない。感じ続けていたいって思っても、子供との時間は少しずつ薄まってしまう。
赤ちゃんの頃の子供に会いたくなっても、もう会えませんね。
だからこそ、会いたいんですよね。
人間は自分の見たいものしか見たくない生き物
先述したように、ニュースを見て涙が出たその日。
笑わなかったか?と言えば、そんな事も無いんです。
仕事から家に帰れば、子供の想定外の発言や行動に、笑っている自分が居ます。
「なんなんだこの矛盾」とか思いつつ
忘れたくない→忘れたい→忘れたくない→忘れたい→忘れたくない→忘れたい
こんな風に、結局、僕は都合のいい方を選んでるだけです。
じゃなきゃ、やってらんないから。
RADWIMPSの、【狭心症】のような事です。
この耳が二つだけでよかったなぁ
世界の叫び声がすべて 聞こえてしまったら
僕は到底息ができないから
僕は僕を 幸せにする機能で
いっぱい いっぱい いっぱい いっぱい
いっぱい いっぱい いっぱい いっぱい
出典:狭心症
RADWIMPS/野田洋次郎