【家族故に苦悩する家庭】「喜ぶ顔が見たい」というエゴと弊害

2019年6月24日心のデザイン

豊かな生活を送ってほしいと願うような人、自分にとって大事な人が居るとします。

それを此処では仮に、家族と定義します。

家庭は家族にとって、穏やかで、安らげる場所ですよね。

その一方で、家族だからこそ苛まれる悩みや苦痛に、疲弊してしまう側面があるのも事実。

例えば、良かれと思って行う干渉が、実質その人にとっては有害でしかないって事は、多分にありますね。

皮肉な話なんですけど、愛情を向けている筈の相手を、結果的に苦しめてしまう、所謂過干渉な状態。

互いに慈しんでいた筈の関係が、いつの間にか苦しめ合っている関係と化す。奇妙な現象。

red-bull

例えば極端な話、エナジードリンクが大好きな子供が居たとして。

その子の祖母あたりが、喜ぶ顔見たさにレッドブルを子供に大量に与え続けたら、いつか死ぬ。

お互いがその時は、一時的な嬉びで充足していたとしても、目先の喜びの為に悲劇を引き起こすのは、喜ぶ顔が見たいと云うエゴだ。

子供の事を真剣に思い遣るなら、喜ぶ顔が見れなくてもエナジードリンクは与えない訳ですよね。

これは極端な例だけど、そんな成り行きって、実は結構有り触れていると思います。

他人を利用して自分が喜びたいだけ

月

高畑勲監督の事実上の遺作、かぐや姫の物語は正に、そんな皮肉の典型が描かれています。

竹から生まれた女の子、かぐや姫。

彼女が成長する過程で、竹から金の粒が溢れて来た事を契機に、竹取翁が親として思い描いた姫への幸福像がありました。

それは、都へ行き、高貴の姫君として振る舞う事

それこそが、かぐや姫にとっての幸福である。と竹取翁は思い込んでいる訳です。

確かに、人によってはそれが当人の幸福に直結するのだろうし。寧ろ、そっちの方が大半なのかも知れない。

しかし、かぐや姫に限っては、そうではなかった。その押し付けこそが窮屈で、苦痛でしかなかったのです。

都へ行ってみれば、歯を出して笑う事を禁止され、別に好きでもない男達に求められる。

そして、その時代の文化的な背景(常識)によって、かぐや姫は窮屈な生き方を強いられた挙句、「此処には居たくない」と願ってしまう。

最終的には、月からの迎えが来る事を、天人に告げられてしまうのです。

その後、月に帰らなければならなくなったかぐや姫は、天真爛漫に野山で駆け回っていた、子供の頃の情景を思い出す切っ掛けを得ます。

そして、この言葉が心から零れ出る。

生きている手応えがあれば、きっと幸せになれた

この両者の、認識の誤差が引き起こす悲劇は、想像力が無いが故の、盲信と勘違いが引き起こしたものです。

それはとりもなおさず、地球に生を受けたにもかかわらず、その生を輝かすことができないでいる私たち自身の物語でもありうるのではないか。

地球を体験した月の人であるかぐや姫が、命あふれる地球の豊かさや、わたしたち人間の愛憎、善良さと愚かさを照らし出してくれないはずはない。

―高畑 勲「かぐや姫の物語」企画書より―

出典:『かぐや姫の物語』公式サイト

生きている手応えがあれば

この言葉の為に、137分の物語があったと言っても過言では無いと、僕は思っています。

独善的な利他

この前、2歳の息子にバナナを渡そうとした時、気を利かせて剥いてから渡すと「自分でやりたかったー!!!」と、大泣きしていました。

因みに、ペットボトルは開けられません。お菓子の袋も。

でも、バナナはやりたかったんですね。「これは俺にも出来る!だから手を出すな!」と。

その方が親切とか、皮を剥けないからって云う思い込みは、自分の勝手な偏見でしかなくて、この場合、子供にとっては自発的な意欲を奪うだけの、迷惑行為でしかなかった。

つまり、思いやりなんてものは、人の数の分だけ形を変える偏見だって事です。

この記事で言いたかったのは、相手の心を想像しようとするなら、自分の思い描く豊かさを押し付けるなんて選択肢は無い。と云う事です。

子供のやる気を尊重するには、先ず、手渡してみて反応を見るしかないのかな。

ワンクッション入れて、測ると。

ただ人によっては、このワンクッションが「無駄だよ!」「過剰サービスだよ!」って事にもなり得るんだから、それは少しずつ擦り合せるしか方法が無いですよね。

摩擦ゼロで、人と人の距離なんて縮まらないです。

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mikio
以上、mikioでした。ありがとうございました。
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